はじめに
ホテル業界において、季節による需要の変動は長年の課題であり、収益管理やマーケティング戦略の根幹をなす要素でした。特に、夏季や年末年始といった「ピークシーズン」と、それ以外の「オフピークシーズン」が存在し、その間に位置する「ショルダーシーズン(肩の季節)」は、比較的穏やかな気候と手頃な価格で旅行を楽しめる「隠れた穴場」として、多くの旅行者にとって魅力的な選択肢となっていました。しかし、2025年現在、この長らく続いてきた季節性のパターンに大きな変化の波が訪れています。特にヨーロッパでは、これまでオフピークとされてきた時期に観光客が集中し、その結果として価格も上昇するという現象が顕著になっています。
「肩の季節」の消失:ヨーロッパで進行する観光の変容
CNNの報道「It used to be Europe’s secret season. Then the crowds arrived」が指摘するように、ヨーロッパではかつての「隠れた季節」であった秋が、今や新たなピークシーズンへと変貌を遂げつつあります。旅行業界の動向を分析するVirtuoso Luxe Reportの調査では、提携する旅行アドバイザーの約4分の3が、顧客が「ショルダーシーズンまたはオフピークの旅行」を選択していると報告しています。また、航空券比較サイトSkyscannerの2026年旅行トレンドレポートでも、旅行者の約3分の1が「人気の場所をショルダーシーズンにのみ訪れる計画」であると述べています。
この傾向は、単に旅行者の行動様式が変化しただけでなく、ホテル業界の価格戦略にも大きな影響を与えています。オランダの旅行会社Untamed Travellingのオーナー、ヨゼフ・ヴァーブルッゲン氏は、「ホテルは『ショルダーシーズン』の価格を『夏と同じ価格水準』に引き上げている」と語っています。これは人気の都市だけでなく、スカンジナビアのような伝統的に夏が旅行シーズンとされてきた地域でも同様の現象が見られるとのことです。多くのヨーロッパの目的地では、かつての2ヶ月間のピークシーズンが、5月から9月、あるいは10月まで続く「ピーク価格設定」へと移行しているのです。
実際に、Leading Hotels of the Worldグループは、この秋の収益が前年比で20%増加したと報告しており、社長兼CEOのシャノン・ナップ氏は「過去1年間で、旅行者はショルダーシーズンの旅行をますます受け入れている」と述べています。これは、ホテル側が需要の増加を収益機会として捉え、価格戦略を積極的に見直していることを示しています。
なぜ「肩の季節」は人気になったのか?
この変化の背景には、いくつかの要因が考えられます。
- オーバーツーリズムの回避: 従来のピークシーズンにおける主要観光地の混雑は、旅行体験の質を低下させる一因となっていました。より快適な旅行を求める人々が、混雑を避けてショルダーシーズンを選ぶようになっています。
- 気候変動の影響: 夏季の異常な猛暑が常態化する中、春や秋の穏やかな気候は、特にヨーロッパでの観光に適していると認識され始めています。
- リモートワークの普及: フレキシブルな働き方が可能になったことで、学校の長期休暇に縛られずに旅行時期を選べる人が増えました。これにより、旅行需要が年間を通じて分散される傾向にあります。
- 情報アクセスの容易さ: インターネットやSNSを通じて、これまで知られていなかったオフピークの魅力やイベント情報が容易に入手できるようになり、新たな旅行需要を喚起しています。
需要の平準化がもたらすビジネスチャンスと課題
ショルダーシーズンの需要増加は、ホテル業界にとって新たなビジネスチャンスであると同時に、いくつかの課題も提起しています。
ビジネスチャンス
- 収益の安定化と最大化: 年間を通じた稼働率の平準化は、季節による収益の大きな変動を抑え、より安定した経営基盤を築くことを可能にします。ピーク価格設定の期間延長は、全体の収益向上に直結します。
- 人材活用の効率化: 季節的な需要の波が小さくなることで、年間を通じたスタッフの雇用安定化や、トレーニング投資の回収期間の短縮が期待できます。
- 新たな顧客層の獲得: 従来のピークシーズンを避けていた層や、価格に敏感な層に対し、新たな価値提案を行う機会が生まれます。
課題
- 価格競争の激化: ショルダーシーズンでも価格が上昇することで、かつての「お得感」が薄れ、顧客はよりコストパフォーマンスの高い選択肢を求めるようになる可能性があります。これにより、ホテル間の価格競争が激化する恐れがあります。
- オーバーツーリズムの拡大: 従来のピークシーズンに加え、ショルダーシーズンまで混雑するようになれば、観光地全体のオーバーツーリズム問題が深刻化し、地域住民との摩擦や環境負荷の増大を招く可能性があります。
- 顧客期待値の変化への対応: かつてオフピークに期待されていた「静かさ」や「ゆったり感」が失われ、顧客の不満につながる可能性があります。ホテルは、価格に見合った新たな価値を提供し続ける必要があります。
- スタッフの負担増: 年間を通じて高稼働が続くことは、現場スタッフの労働負荷を増大させ、離職率の上昇につながるリスクをはらんでいます。適切な人員配置と労働環境の整備がより一層重要になります。
ホテルが取るべき戦略:価格設定と価値提供の再考
この新たな「季節性の波」を乗りこなし、持続的な成長を実現するためには、ホテルは従来のビジネスモデルを見直し、戦略的なアプローチを取る必要があります。
1. レベニューマネジメントの再構築とダイナミックプライシングの精緻化
需要の平準化は、レベニューマネジメントの重要性を一層高めます。単に価格を引き上げるだけでなく、より高度なデータ分析に基づいたダイナミックプライシングが不可欠です。市場の需要、競合の動向、イベント情報、さらには天候予測までをリアルタイムで分析し、最適な価格設定を行うことで、収益の最大化を図ります。AIを活用した需要予測システムや、より柔軟な価格設定ツールを導入することで、人間の勘に頼る部分を減らし、データに基づいた意思決定を強化することが求められます。
現代ホテル経営の要諦:マーケティングとRMが築く「高収益」と「卓越した体験」やホテル経営の転換点:マーケティングとレベニューが導く「持続的成長」と「真のホスピタリティ」といった記事でも触れている通り、マーケティングとレベニューマネジメントの連携強化は、この変化の時代において不可欠な要素です。
2. 新たな価値提案と体験の創出
価格が上昇してもなお顧客に選ばれ続けるためには、価格以上の価値を提供することが重要です。単なる宿泊施設としてではなく、その地域ならではの体験や、季節に合わせた特別なプログラムを企画することで差別化を図ります。例えば、秋であれば地元の食材を使った料理教室、収穫体験、紅葉に合わせたガイドツアーなどが考えられます。
稼働率至上主義の終焉:ホテルが「体験」で拓く「収益多様化」と「未来価値」で述べたように、稼働率至上主義から脱却し、体験価値を重視する戦略は、顧客ロイヤルティを高め、持続的な成長に繋がります。
- 地域連携の強化: 地元の観光業者、飲食店、アーティストなどと連携し、ホテル滞在中にしか味わえないユニークな体験を提供します。これにより、地域の魅力を最大限に引き出し、ホテルだけでなく地域全体の活性化にも貢献します。
- パーソナライズされたサービス: 顧客の好みや滞在目的に合わせた、きめ細やかなサービスを提供することで、価格上昇に対する満足度を高めます。事前アンケートや滞在中の対話を通じて、個々のニーズを把握し、最適な提案を行うことが重要です。
3. ターゲット顧客の再定義とコミュニケーション戦略
かつてショルダーシーズンを好んでいた層が、新たな混雑と価格上昇に直面し、別の目的地や時期を模索する可能性があります。ホテルは、新たな市場セグメントを特定し、それぞれのニーズに合わせたコミュニケーション戦略を構築する必要があります。
- デジタルマーケティングの強化: ターゲット顧客が利用するSNSやオンラインプラットフォームを活用し、ホテルの持つ独自の価値や体験を効果的に伝えます。ビジュアルコンテンツを多用し、感情に訴えかけるメッセージングが重要です。
- ロイヤルティプログラムの強化: リピーター顧客に対しては、早期予約特典や限定イベントへの招待など、特別なインセンティブを提供し、継続的な利用を促します。
4. サステナビリティへの配慮と地域社会との共存
需要の平準化が進む中で、オーバーツーリズムの問題はより広範な時期にわたって発生するリスクがあります。ホテルは、地域社会の一員として、持続可能な観光の推進に積極的に貢献する姿勢を示す必要があります。
- 環境負荷の低減: 省エネルギー対策、廃棄物削減、地産地消の推進など、環境に配慮した運営を徹底します。
- 地域住民との対話: 観光客と住民の間の摩擦を最小限に抑えるため、地域住民の意見に耳を傾け、共存のためのルール作りや啓発活動に協力します。
現場の課題と顧客の声
この変化は、ホテル現場にも直接的な影響を与えています。あるホテル支配人は「以前は秋口になると少し落ち着く時期があったが、今は年間を通じてほぼフル稼働。スタッフの疲労蓄積が懸念される」と語ります。また、別のフロントスタッフは「『昔はもっと安かったのに』というお客様の声を聞くことも増えた。価格に見合うだけの特別な体験を提供できているか、常に自問自答している」と本音を漏らします。
一方で、旅行者からは「混雑を避けてゆっくり過ごしたかったのに、結局どこも人が多くてがっかりした」「オフピークのメリットが薄れて、旅行の計画が立てにくくなった」といった声も聞かれます。かつての「隠れた穴場」が失われつつある現状に対し、旅行者も新たな選択肢を模索し始めています。
まとめ
ヨーロッパで顕著になっている「肩の季節」の消失は、ホテル業界全体が直面する大きな変化の兆しです。これは単なる季節性の変化ではなく、旅行者の価値観、働き方、そして気候変動といった複合的な要因が絡み合った結果です。ホテルは、この変化を単なる課題として捉えるのではなく、むしろ新たなビジネスモデルを構築し、持続的な成長と顧客満足を両立させるための機会と捉えるべきです。
そのためには、データに基づいたレベニューマネジメントの精緻化、地域と連携した独自の体験価値の創出、そしてサステナビリティへの真摯な取り組みが不可欠です。2025年以降、ホテル業界は、年間を通じて「真のホスピタリティ」を提供し続けるための、より戦略的で包括的なアプローチが求められるでしょう。この変革期を乗り越え、新たな価値を創造できるホテルこそが、これからの市場で成功を収めることができるはずです。


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