はじめに:なぜ今、ホテル業界で「人材戦略」が最重要課題なのか?
観光需要の回復が本格化する一方で、ホテル業界は深刻な人手不足という大きな課題に直面しています。加えて、顧客のニーズは多様化・高度化し、単に宿泊する場所というだけでなく、そこでしか得られない「体験価値」が求められるようになりました。このような状況下で、ホテルが競争優位性を確立し、持続的に成長していくためには、優れた人材の確保、育成、そして定着が不可欠です。もはや人材は「コスト」ではなく、企業の未来を創る最も重要な「資産」と言えるでしょう。ある著名なホテル経営者は「ホテル業界は最悪だ。だが、面白い」と語りました。この言葉は、業界が抱える困難さと、それを乗り越えた先にある大きなやりがいや可能性を示唆しています。本記事では、ホテル企業の人事担当者の皆様に向けて、従業員が辞めずに成長し続けられる組織を作るための「採用」「育成」「定着」の3つのフェーズにおける具体的な戦略を深掘りします。
フェーズ1:採用戦略 – 「スキル」から「カルチャーフィット」への転換
優秀な人材を採用したいと考えたとき、これまでは職務経験や専門スキルが主な判断基準でした。しかし、どれだけ高いスキルを持っていても、企業の文化や価値観に合わなければ、早期離職につながりかねません。これからの採用では、ホテルの理念やビジョンに心から共感し、チームの一員として共に成長していける「カルチャーフィット」を重視することが極めて重要になります。
具体的な採用手法
1. 体験型選考の導入
書類選考や数回の面接だけでは、候補者の本質を見抜くことは困難です。そこで有効なのが、半日程度の職場体験やグループワークを取り入れた「体験型選考」です。実際の業務の一部を体験してもらったり、特定の課題についてチームで議論してもらったりすることで、候補者の価値観、コミュニケーションスタイル、問題解決能力などを多角的に評価できます。また、候補者自身も働くイメージを具体的に掴めるため、入社後のミスマッチを大幅に減らすことができます。
2. リファラル採用の積極的な活用
リファラル採用(社員紹介制度)は、カルチャーフィットの高い人材を見つける上で非常に効果的な手法です。既存の社員は自社の文化を深く理解しているため、その文化に合う友人や知人を紹介してくれる可能性が高いからです。制度を成功させるには、魅力的なインセンティブ設計はもちろんのこと、「自社を友人におすすめしたい」と社員に思ってもらえるようなエンゲージメントの高い組織であることが大前提となります。社内報や全体会議などで制度の周知を徹底し、紹介してくれた社員が正当に評価される文化を醸成しましょう。
3. 採用ブランディングの強化
求人媒体に情報を掲載するだけの「待ち」の採用から、自社の魅力を積極的に発信する「攻め」の採用へとシフトすることが求められます。公式サイトの採用ページやSNSを活用し、ホテルで働くスタッフの日常、キャリアストーリー、仕事のやりがいなどを発信しましょう。美しい客室や料理の写真だけでなく、「人」にフォーカスしたコンテンツは、求職者の共感を呼び、「このホテルで働きたい」という強い動機付けにつながります。
フェーズ2:育成戦略 – 個々の「強み」を活かし、キャリアを自律的に描かせる
人材が定着し、成長するためには、体系的で継続的な教育プログラムが不可欠です。従来のOJT(On-the-Job Training)だけに頼るのではなく、個々の従業員の「スキル」と「強み」の両方を伸ばすハイブリッドなアプローチが求められます。
育成プログラムの設計
1. スキルマップによる成長の可視化
まず、フロント、料飲、セールス、マーケティングといった各部門・役職において求められる「スキル」を具体的に定義し、「スキルマップ」として可視化します。これには、接客スキルや語学力といった基本的なものから、レベニューマネジメント、デジタルマーケティング、データ分析といった専門的なスキルまで含まれます。従業員はスキルマップを見ることで、自身の現在地と目指すキャリアに必要なスキルセットを客観的に把握でき、学習意欲の向上につながります。
2. 「強み」を活かすタレントマネジメント
一方で、「スキル(後天的に習得できる技術)」と「強み(その人が持つ先天的な才能や特性)」は異なります。例えば、「誰とでもすぐに打ち解けられる」「細かな違いに気づくのが得意」「物事を論理的に整理できる」といった点は、教えられて身につくスキルというよりは、個人の「強み」です。定期的な1on1ミーティングやアセスメントツールを通じて、上司が部下一人ひとりの強みを把握し、その強みを最大限に発揮できる業務や役割を任せることが、従業員のモチベーションとパフォーマンスを飛躍的に高めます。
3. 越境学習による視野の拡大
従業員の成長を促すためには、慣れた環境から一歩踏み出す「越境学習」の機会を提供することも有効です。例えば、フロントスタッフがマーケティング部門のプロジェクトに期間限定で参加したり、系列の別ホテルで研修を受けたりする機会を設けます。異なる部署や環境での経験は、新たなスキルの習得だけでなく、自部署の業務を客観的に見つめ直すきっかけとなり、組織全体の連携強化にも貢献します。
フェーズ3:定着戦略 – 明確なキャリアパスとエンゲージメント向上が鍵
離職の大きな原因として、「将来のキャリアが見えない」「正当に評価されていない」「人間関係が良くない」といった点が挙げられます。従業員に長く活躍してもらうためには、働きがいを感じられる環境と、将来への希望を持てるキャリアパスを明確に提示することが不可欠です。
具体的な定着施策
1. 複線型のキャリアパスの提示
キャリアのゴールは総支配人だけではありません。現場で最高のサービスを提供し続ける「スペシャリストコース」と、組織を管理・運営する「マネジメントコース」など、複線型のキャリアパスを用意しましょう。これにより、従業員は自身の適性や志向に応じてキャリアプランを選択できるようになります。重要なのは、それぞれのコースで求められる要件や評価基準、待遇などを明確にし、誰もが納得感を持ってキャリアを歩めるようにすることです。
2. エンゲージメントを高める仕組みづくり
従業員エンゲージメント(仕事への熱意や貢献意欲)は、定着率と密接に関係しています。
・メンター制度:新入社員や若手社員一人ひとりに対して、先輩社員が公私にわたってサポートするメンター制度は、早期離職の防止に非常に効果的です。
・フィードバック文化の醸成:年に数回の評価面談だけでなく、日々の業務の中で称賛や感謝、改善点を伝え合う文化を育てましょう。サンクスカードの導入や、社内SNSでのポジティブな発信などが有効です。
・ウェルビーイングの追求:長時間労働の是正、有給休暇の取得促進、公正なシフト管理(ITツールの活用も一案)など、従業員が心身ともに健康でいられる労働環境の整備は、企業の責務です。
3. 多様な人材が活躍できる環境整備
近年、特定技能制度などを活用して外国人材を採用するホテルも増えています。彼らが安心して能力を発揮するためには、受け入れ体制の強化が急務です。言語の壁を解消するためのマニュアルの多言語化や研修の実施、文化の違いから生じる誤解を防ぐための相互理解研修など、きめ細やかなサポートが求められます。多様なバックグラウンドを持つ人材が共存し、互いに尊重し合える職場環境こそが、これからのホテルの新たな価値創造の源泉となります。
まとめ:人材戦略は、最高の顧客体験を生み出すための「未来への投資」
優れた人材戦略とは、単に人を集めて辞めさせないようにすることではありません。採用から育成、定着までの一貫したサイクルを通じて、従業員一人ひとりが自身の成長と仕事への誇りを実感し、その結果として生まれるポジティブなエネルギーが、お客様への最高のサービスとなって還元される。この好循環を創り出すことこそが、人材戦略の最終目標です。人事担当者は、経営層や現場のマネージャーを巻き込みながら、全社一丸となって「人が育ち、輝けるホテル」を創り上げていくことが、かつてないほど重要になっています。それは決して容易な道ではありませんが、その先にはホテルの持続的な成長と、お客様からの揺るぎない信頼が待っているはずです。
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