はじめに
2025年10月、ホテル業界に新たな波紋を広げるニュースが飛び込んできました。Swire Hotelsが、そのラグジュアリーブランドである「The House Collective」を統合し、「Upper House」というグローバルブランドとして再出発することを発表したのです。この動きは、単なるブランド名の変更に留まらず、ホテルが提供する価値、そして現場のホスピタリティのあり方そのものに深い問いを投げかけています。Swire Hotelsは、その哲学を「Houses not Hotels(ホテルではなく、家)」と表現し、「unscripted, authentic and deeply personal(未脚本で、本物で、深くパーソナルな)」ホスピタリティを追求すると明言しています。本稿では、この「Upper House」の戦略がホテル業界、特に現場にもたらす影響と、今後のホスピタリティの方向性について深く掘り下げていきます。
参照元:Swire Hotels unveils Upper House, a new chapter for The House Collective – Hospitality Net
「Houses not Hotels」が意味するもの
「Houses not Hotels」という哲学は、従来の画一的なホテルサービスからの明確な脱却を意図しています。一般的なホテルが提供する、ある程度予測可能な快適さや利便性に対し、「家」という概念は、より個別的で、その人にとって唯一無二の体験を想起させます。これは、ゲストが単なる宿泊客として扱われるのではなく、まるで自宅にいるかのように、あるいは親しい友人の家に招かれたかのように、心からくつろぎ、自分らしく過ごせる空間とサービスを意味するでしょう。
この哲学を具現化するためには、物理的な空間設計はもちろんのこと、最も重要なのは「unscripted, authentic and deeply personal」なホスピタリティの提供です。これは、マニュアル通りの対応ではなく、ゲスト一人ひとりの微細なニーズや気分を察知し、その瞬間に最もふさわしいサービスを、自然体で提供する能力を現場スタッフに求めるものです。
「unscripted, authentic and deeply personal」なホスピタリティの具現化
現場の「泥臭い」挑戦:マニュアルを超えたサービス
「未脚本(unscripted)」なサービスとは、マニュアルに書かれていない状況に、スタッフが自らの判断と創意工夫で対応することを意味します。これは、ホテル現場で働くスタッフにとって、非常に高度なスキルと経験、そして精神的な強さを要求する「泥臭い」挑戦です。例えば、ゲストがチェックイン時に見せるわずかな表情の変化から、疲労の度合いや期待感を読み取り、言葉には出さないが「静かに過ごしたい」という潜在的なニーズを察知するといったことです。あるいは、滞在中にゲストが抱えるであろう小さな不満や要望を先回りして解決する、といった能動的な対応が求められます。
このようなサービスは、単に「親切にする」という抽象的なものではありません。ゲストの行動パターン、過去の滞在履歴、好みに関する情報を深く理解し、それらを基に最適な選択肢を提案する、あるいは全く新しい体験を創造する能力が必要です。これは、データ分析に基づいた洞察力と、それを人間的な温かみをもって表現するコミュニケーション能力の融合なしには成り立ちません。
スタッフの裁量と育成:哲学を実践する人材
「unscripted」なサービスを実現するためには、現場スタッフに一定の裁量権が与えられなければなりません。画一的なマニュアルに縛られることなく、自身の判断でゲストに最高の体験を提供できる環境が不可欠です。しかし、この裁量権は無責任な行動を許すものではなく、ブランドの哲学と価値観を深く理解し、それを自身の行動原理として落とし込めるスタッフでなければ、適切に行使することはできません。
そのため、人材育成のあり方も大きく変わる必要があります。単なる業務知識やスキル研修に留まらず、ブランドの歴史、哲学、目指す顧客体験について深く学び、それを自身の言葉で語り、行動で示せるような教育が求められます。ロールプレイングやケーススタディを通じて、予期せぬ状況への対応力を養い、チーム内での情報共有やフィードバックを通じて、個々のスタッフの経験値を組織全体の知見として蓄積していく仕組みも重要です。これにより、スタッフ一人ひとりがブランドの「顔」となり、ゲストにとっての「家」を創り出す重要な役割を担うことができるようになります。
情報共有とゲスト理解:パーソナルな体験の基盤
「深くパーソナルな(deeply personal)」体験を提供するためには、ゲストに関する質の高い情報が不可欠です。これは、単に氏名や予約情報だけでなく、過去の滞在で好んだアメニティ、食事の好み、アレルギー情報、興味のあるアクティビティ、さらには会話の中で得られた個人的な嗜好など、多岐にわたります。これらの情報を一元的に管理し、現場のスタッフがリアルタイムでアクセスできるシステムは、パーソナルなサービス提供の強力な基盤となります。
しかし、システムに情報があるだけでは不十分です。重要なのは、その情報をスタッフがどのように解釈し、どのようにサービスに活かすかという点です。例えば、アレルギー情報だけでなく、「以前、このゲストは朝食で特定のフルーツを好んで召し上がっていた」というような、細やかな情報まで共有され、それが次の滞在でさりげなく提供されることで、ゲストは「自分のことを理解してくれている」という深い感動を覚えるでしょう。これは、テクノロジーと人間のきめ細やかな観察力、そして記憶力が融合して初めて実現するものです。
グローバル展開とブランドレジデンスの戦略的意義
「Upper House」は、深圳、西安、東京での新規開業、そしてバンコクでのブランドレジデンス展開を予定しており、国際的な成長フェーズに入ります。特にアジア市場は、富裕層の増加と旅行ニーズの多様化が進んでおり、パーソナルなラグジュアリー体験への需要が高まっています。
ブランドレジデンスの展開は、単なる宿泊施設提供を超えた戦略的意義を持ちます。これは、ゲストに「第二の家」としての価値を提供し、ホテルが提供するサービスとレジデンスとしての居住性を融合させることで、長期滞在者や特定のライフスタイルを求める顧客層をターゲットにします。ホテルサービスの利便性を享受しながら、プライベートな空間で過ごせるというメリットは、特に富裕層にとって魅力的です。このモデルは、変動する市場環境において、安定した収益源を確保しつつ、ブランドロイヤリティを長期的に構築する上で重要な役割を果たすでしょう。
現場スタッフの「記憶と物語」を紡ぐ役割
「Upper House」の哲学が示すように、ホテルの真価は、洗練された設備や豪華な内装だけでは決まりません。むしろ、ゲスト一人ひとりの心に深く刻まれる「記憶と物語」を、現場のスタッフがどれだけ丁寧に紡ぎ出せるかにかかっています。マニュアルを超えた「unscripted」なサービスは、まさにその瞬間、そのゲストのためだけに創造される「物語」です。
例えば、あるゲストが誕生日であることをさりげなく知ったスタッフが、サプライズで小さなケーキを用意したり、手書きのメッセージを添えたりする。あるいは、体調を崩したゲストのために、営業時間外にもかかわらず温かいスープを用意するといった、一見すると「泥臭い」とも言える個別の対応が、ゲストにとって忘れられない「記憶」となります。これらの体験は、ゲストがホテルに戻ってくる理由となり、ブランドへの深いロイヤルティを築き上げます。詳細については、以前の記事「ホテルブランドの真価:現場の「泥臭い努力」が築く「記憶と物語」」でも触れていますが、この「Upper House」の戦略は、まさにこの本質を追求していると言えるでしょう。
「個性」を活かすホテリエの未来
「Upper House」のようなブランドが目指すホスピタリティは、ホテリエ自身の「個性」を最大限に活かすことを促します。画一的なサービス提供者としてではなく、自身の感性や経験、知識を活かしてゲストに価値を提供するクリエイターとしての役割が期待されるのです。これは、ホテリエにとって、自身のキャリアを豊かにし、仕事への深い満足感を得る機会にもなります。
「unscripted」なサービスは、スタッフが自身の判断で行動し、結果としてゲストに感動を与えることで、自己効力感を高めます。このような環境は、スタッフの定着率向上にも繋がり、長期的な視点で見れば、ブランド全体のサービス品質を向上させる原動力となります。ホテリエがマニュアルに縛られず、自身の「個性」を輝かせながらゲストと向き合うことの重要性は、以前の記事「ホテリエの真価は「個性」に宿る:マニュアルを超えた「感動体験」と「自己実現」」でも強調しました。2025年、そしてそれ以降のホテル業界において、この「個性を活かすホテリエ」の存在は、ブランドの競争力を左右する重要な要素となるでしょう。
まとめ
Swire Hotelsが発表した「Upper House」は、「Houses not Hotels」という哲学を掲げ、ホテル業界に新たな価値基準を提示しています。これは、単にラグジュアリーな空間を提供するだけでなく、ゲスト一人ひとりに深く寄り添い、マニュアルを超えた「unscripted, authentic and deeply personal」な体験を創造することを目指しています。この実現には、現場スタッフの高度な判断力、深いゲスト理解、そしてブランド哲学を体現する「泥臭い」努力が不可欠です。
グローバル展開とブランドレジデンスの戦略は、多様化する市場ニーズに対応し、持続的な成長を目指すものです。そして、その根底には、テクノロジーだけでは代替できない、人間ならではの温かみと創造性によってゲストの「記憶と物語」を紡ぎ出すという、ホスピタリティの本質があります。2025年、ホテル業界は、画一的なサービスから脱却し、よりパーソナルで、より心に残る体験を提供するための変革期を迎えていると言えるでしょう。
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