はじめに:なぜ今、ホテルのアップセル・クロスセル戦略が重要なのか?
インバウンド需要の回復や国内旅行の活発化により、ホテル業界は活気を取り戻しつつあります。しかしその一方で、OTA(Online Travel Agent)間の価格競争は激化し、エネルギーコストや人件費の高騰も経営を圧迫しています。このような状況下で持続的な成長を遂げるためには、単に客室稼働率を上げるだけでなく、顧客一人当たりの単価(ADR: Average Daily Rate)と、顧客生涯価値(LTV: Life Time Value)をいかに最大化するかが重要な経営課題となっています。
そこで注目されるのが、「アップセル」と「クロスセル」というマーケティング戦略です。これは、既に予約を確定している顧客に対して、より付加価値の高い選択肢や関連サービスを提案し、購買を促すアプローチです。新規顧客の獲得には多大なコスト(CAC: Customer Acquisition Cost)がかかるのに対し、既存顧客へのアプローチは比較的低コストで高い成果が期待できます。さらに、適切に設計されたアップセル・クロスセルは、単なる「追加販売」に留まらず、顧客が気づいていなかったニーズを掘り起こし、より豊かな滞在体験を提供することで、顧客満足度(CS)の向上にも直結します。本記事では、このアップセル・クロスセル戦略について、その基本からテクノロジーを活用した具体的な実践方法までを深掘りしていきます。
アップセルとクロスセルの基本的な違い
戦略を考える前に、まず二つの言葉の定義を正確に理解しておくことが重要です。これらは混同されがちですが、アプローチの仕方が異なります。
アップセル(Up-selling)
アップセルとは、顧客が購入しようとしている商品やサービスよりも、上位の(より高価な)ものを提案し、客単価を引き上げる手法です。ホテルにおいては、以下のような例が挙げられます。
- スタンダードルームの予約客に対し、追加料金でデラックスルームやスイートルームへのアップグレードを提案する。
- 眺望の良くない部屋から、オーシャンビューやシティビューの部屋への変更を促す。
- 朝食なしのプランに対し、ホテルの自慢の朝食ビュッフェ付きプランを勧める。
- クラブフロアへのアクセス権や、レイトチェックアウトなどの特典が付いたパッケージを提案する。
クロスセル(Cross-selling)
クロスセルとは、顧客が購入を決めた商品やサービスに加えて、関連する別の商品やサービスを提案する手法です。合わせ買いを促すことで、売上の総額を増加させます。ホテルでの例は以下の通りです。
- 宿泊予約客に対し、ホテル内のレストランでのディナーコースや、バーの利用券を提案する。
- 家族連れの顧客に、近隣のテーマパークのチケットや、ホテル主催のキッズアクティビティを案内する。
- カップルや夫婦に、スパのペアトリートメントや、記念日用のケーキ・シャンパンのルームサービスを提案する。
- ビジネス客に、空港送迎サービスや会議室の利用を勧める。
アップセルが「より良く」を、クロスセルが「これも一緒に」を提案するアプローチだと理解すると分かりやすいでしょう。どちらの戦略も、顧客の潜在的なニーズを的確に捉えることが成功の鍵となります。
成功の鍵は「顧客理解」と「絶妙なタイミング」
アップセルやクロスセルが成功するか否かは、「誰に」「何を」「いつ」提案するかにかかっています。闇雲な提案は「押し売り」と受け取られ、かえって顧客満足度を下げかねません。
1. 顧客データの活用による「顧客理解」
効果的な提案の第一歩は、顧客を知ることです。PMS(Property Management System)やCRM(Customer Relationship Management)に蓄積されたデータは、そのための宝の山です。
- 予約情報:誰と(一人、カップル、家族)、何のために(ビジネス、観光)、何泊するのか。これらの基本情報から、顧客のペルソナがある程度推測できます。例えば、記念日での宿泊が分かっていれば、サプライズ演出のクロスセルが響く可能性は高いでしょう。
- 過去の利用履歴:リピーターであれば、過去にレストランを利用したか、どのような部屋を好んだかといったデータが貴重なヒントになります。以前スパを利用した顧客には、新しいトリートメントメニューを提案するといったパーソナライズが可能です。
- 顧客セグメンテーション:データを元に顧客を「ビジネス客」「ファミリー層」「カップル」などに分類し、各セグメントのニーズに合った標準的な提案を用意しておくことも有効です。
2. 最適な「提案タイミング」
同じ提案でも、タイミングによって顧客の受け取り方は大きく変わります。
- 予約直後:旅行への期待感が最も高まっているタイミングです。予約完了メールの中で、客室のアップグレードやレストランの事前予約を案内するのは非常に効果的です。
- 宿泊数日前:旅行の準備が本格化する時期です。リマインドメールに含める形で、空港送迎や現地アクティビティといったクロスセルの提案が有効です。「天気予報によると当日は雨のようです。ホテル内で楽しめるスパはいかがですか?」といった気の利いた提案も喜ばれるでしょう。
- チェックイン時:フロントスタッフによる対面での提案は、顧客の表情や反応を見ながら柔軟に対応できるという強みがあります。ただし、手続きで待たせている中で長々とした説明は禁物です。簡潔で魅力的な提案が求められます。
- 滞在中:客室に設置されたタブレットやスマートTV、あるいはQRコードを介して、ルームサービスやスパの予約、お土産の購入などを促すことができます。顧客がリラックスしている空間で、好きな時に情報にアクセスできるため、ストレスなくサービスを検討してもらえます。
テクノロジーが加速させるアップセル・クロスセル戦略
かつてはフロントスタッフの経験と勘に頼りがちだったこれらの戦略も、テクノロジーの活用によって、より効率的かつ効果的に展開できるようになりました。
MA(マーケティングオートメーション)/CRMツール
予約後の顧客に対し、設定したシナリオに基づいてパーソナライズされた提案メールを自動配信できます。例えば、「カップルでの予約客に、予約3日後にディナーコースの案内メールを送信する」「誕生月に宿泊するリピーターに、シャンパンサービスの特典を付けてアップグレードを提案する」といった細やかなアプローチが自動で可能になります。これにより、マーケティング担当者の工数を削減しつつ、コンバージョン率を高めることができます。信頼できるCRMツールの情報は、例えばこちらのようなサイトで基本を学ぶことができます。
専用チャットボット
自社ウェブサイトに設置したチャットボットは、24時間365日、顧客の問い合わせに対応するだけでなく、絶好のセールスパーソンにもなり得ます。「レストランについて教えて」という質問に対し、メニューや営業時間を案内すると同時に、「今ならWeb予約で10%オフになりますが、予約されますか?」とクロスセルに繋げることができます。
客室タブレット/スマートTV
客室というプライベートな空間で、顧客は能動的に情報を探します。タブレットからルームサービスのメニューを魅力的な写真付きで表示したり、スパのプロモーション動画を流したりすることで、顧客の利用意欲を掻き立てます。タップ一つで予約や注文が完結する手軽さも、利用を後押しする重要な要素です。
アップセリングツール
近年では、ホテルのアップセルに特化したツールも登場しています。これらのツールはPMSと連携し、予約客に対して自動でアップグレードのオファーを送信します。中には、顧客が希望するアップグレードの入札を行う「ビディング形式」を採用しているものもあり、ゲーム感覚で楽しみながら客単価向上に貢献してくれます。
まとめ:顧客体験の向上こそが、最高のマーケティング
アップセル・クロスセル戦略は、単なる売上向上のためのテクニックではありません。その本質は、顧客データを深く理解し、テクノロジーを駆使して、一人ひとりの顧客に「より良い滞在」を提案する、おもてなしの一環です。顧客が「そんなサービスがあるなら利用したい」「自分のことをよく分かってくれている」と感じるような提案は、結果として売上だけでなく、顧客満足度とロイヤルティを大きく向上させます。
押し付けではなく、あくまで「価値ある選択肢の提案」という姿勢を忘れずに、自社のホテルの強みと顧客のニーズを繋ぎ合わせることで、アップセル・クロスセルはホテル経営の強力な武器となります。まずは、活用できるデータは何か、どのタイミングで、どんな提案ができそうか、という視点から自社のサービスを見直してみてはいかがでしょうか。
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