はじめに
ホテル業界におけるプライシングは、単なる客室料金の決定を超え、収益最大化と競争優位性を確立するための戦略的な要となっています。特に2025年現在、市場の複雑化と顧客行動の多様化が進む中で、従来の経験や直感に頼った価格設定では、もはや持続的な成長は望めません。この変化の波を捉え、ホテル経営に新たな息吹をもたらしているのが、データドリブンな「ホテルプライシングの新しい科学」です。
直感から科学へ:ホテルプライシングの進化
かつてホテルの価格設定は、過去の実績、競合の動向、そして担当者の経験と勘に大きく依存していました。しかし、需要と供給の変動が激しい現代において、このアプローチは限界を迎えています。Skiftが報じた記事「The New Science of Hotel Pricing」(https://skift.com/2025/10/26/the-new-science-of-hotel-pricing/)は、この変革の本質を捉えています。記事では、ホテル業界が直感ベースのプライシングから、データ駆動型でアルゴリズムを用いたレベニューマネジメントシステム(RMS)へと移行していると指摘しています。
これは単に空室を埋めるための価格調整に留まらず、客室、F&B(飲食)、MICE(会議・研修・国際会議・イベント)など、ホテルが提供する全てのサービスからの総収益を最適化するという、より広範な視点に基づいています。この「新しい科学」は、リアルタイムでの市場分析、予測モデリング、そして最適価格提示を可能にし、ホテルの収益構造を根本から変えようとしています。
大手ホテルチェーンが牽引するテクノロジー投資と組織変革
Skiftの記事が強調するように、主要なホテルブランドは、この新しい科学を実践するためにテクノロジースタックに多大な投資を行っています。これは、単一のシステム導入にとどまらず、以下のような多角的なアプローチを含みます。
- データソースの統合:航空券の予約状況、地域のイベントスケジュール、競合ホテルの価格、オンライン旅行代理店(OTA)のデータ、さらにはSNS上の顧客感情やレビューなど、多岐にわたるデータを一元的に収集・分析します。これにより、市場の微細な変化をリアルタイムで捉え、需要を予測する精度を格段に向上させます。
- 高度なアルゴリズムの活用:機械学習やAIを搭載したRMSは、統合された大量のデータからパターンを学習し、将来の需要を予測。それに基づき、最も収益性の高い価格を動的に提示します。これは、特定の顧客セグメントや予約チャネルに応じたパーソナライズされた価格設定を可能にし、それぞれの顧客が感じる「価値」を最大化しながら、ホテルの利益を最大化します。
- 組織文化と構造の進化:テクノロジーへの投資だけでなく、それを最大限に活用するための組織変革も不可欠です。レベニューマネジメントは、もはや一部門の業務ではなく、経営戦略の中核として位置付けられています。レベニューマネージャーは、単なる価格設定担当者から、データに基づいた戦略的アドバイザーへとその役割を拡大し、営業、マーケティング、F&Bなど他部門との連携を深めることで、ホテル全体の利益最適化に貢献しています。
このような取り組みは、過去記事でも触れた「未来を拓くホテル経営:Rotanaが示す「AI基盤」と「パーソナライズド・ホスピタリティ」」や「ホテルホスピタリティの最前線:AIとデータが拓く「人間的つながり」と「ホテリエの真価」」が示すように、AIとデータ活用がホスピタリティ業界全体の進化を牽引していることを裏付けています。
現場のリアルと中小ホテルの挑戦
しかし、この「新しい科学」への移行は、全てのホテルにとって容易な道のりではありません。Skiftの記事が指摘するように、多くの中小ホテルは、コストとトレーニングの障壁に直面しています。
- 導入コストと運用負荷:高度なRMSの導入には、初期費用だけでなく、システムの維持管理やスタッフのトレーニングに多大なリソースが必要です。特に限られた予算で運営される中小ホテルにとって、これは大きな負担となります。
- 人材育成の課題:データ分析やアルゴリズムの理解、そしてそれに基づいた戦略立案能力を持つレベニューマネージャーは、依然として希少な存在です。現場のスタッフが新しいツールや思考法に適応するには、時間と継続的な教育が求められます。
- 「勘と経験」からの脱却:長年の経験に基づく直感的な判断は、時に優れた成果を生み出してきましたが、データドリブンな意思決定へのシフトは、現場のベテランホテリエにとって大きな意識改革を要します。データが示す結果と自身の経験が異なる場合、そのギャップをどう埋め、納得感を持って新しい戦略を実行に移すかが課題となります。
ある地方のブティックホテルのGMは、「新しいシステムは魅力的だが、うちのような規模では、専門のレベニューマネージャーを雇う余裕もないし、既存スタッフに高度なデータ分析を求めるのは現実的ではない。結局、日々の業務に追われ、目の前の予約を埋めることに精一杯だ」と語ります。これは、多くの現場が抱える共通の課題を浮き彫りにしています。
しかし、中小ホテルにも希望がないわけではありません。クラウドベースで提供されるSaaS型RMSは、初期投資を抑えつつ高度な機能を利用できる選択肢を提供しています。また、外部のレベニューマネジメントコンサルタントとの提携も、専門知識を補完する有効な手段となり得ます。重要なのは、自ホテルの規模や特性に合わせた最適なアプローチを見つけることです。
未来への展望:パーソナライゼーションと総収益管理の深化
ホテルプライシングの新しい科学は、これからも進化を続けます。その方向性の鍵となるのが、パーソナライゼーションの深化と総収益管理(Total Revenue Management)のさらなる統合です。
- 超パーソナライズされた体験:顧客の過去の宿泊履歴、予約行動、Webサイトでの閲覧履歴、さらにはSNS上の嗜好までを分析し、個々のゲストに最適化された価格とパッケージを提示することが可能になります。これは、単なる割引ではなく、ゲストが「自分にとって最も価値のあるもの」と感じる体験を、適切な価格で提供することを目指します。
- F&B、スパ、アクティビティとの連携:客室料金だけでなく、レストラン、バー、スパ、アクティビティ、MICEなど、ホテル内のあらゆる収益源を統合的に管理し、全体の利益を最大化するアプローチがさらに重要になります。例えば、特定の時期に客室稼働率が低い場合でも、魅力的なF&Bパッケージやイベントを組み合わせることで、顧客単価(ADR)と総収益を向上させることが可能になります。
- テクノロジーと人間の協調:AIとアルゴリズムは強力なツールですが、最終的な意思決定とゲストへの「おもてなし」は、人間のホテリエにしかできません。データが示す客観的な情報と、ホテリエが持つ現場の知見や顧客への共感を融合させることで、真に価値あるホスピタリティが生まれます。テクノロジーはホテリエの負担を軽減し、より創造的で人間的なサービスに集中できる時間をもたらすためのものです。
「未来のホテリエ像:AIが育む「高価値な対話」と「記憶に残るおもてなし」」で述べたように、AIはホテリエの仕事を奪うのではなく、その価値をより高めるためのパートナーとなり得るのです。
まとめ
ホテルプライシングの「新しい科学」は、データとアルゴリズムの力を借りて、ホテル業界に未曾有の収益最適化の機会をもたらしています。大手ホテルチェーンがリードするテクノロジー投資と組織変革は、この変化の方向性を示しています。一方で、中小ホテルはコストや人材育成の課題に直面しながらも、クラウドソリューションや外部連携を通じて、この波に乗る道を模索しています。
重要なのは、単に最新のシステムを導入するだけでなく、データに基づいた意思決定文化を醸成し、ホテリエがそのデータを活用してより深い顧客体験を創造できるような環境を整えることです。2025年、ホテル業界は、直感から科学へ、そして科学がもたらす人間的な価値の最大化へと、その進化の歩みを加速させています。


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