はじめに
2025年を迎えた現在、ホテル業界はかつてないほどの人材不足に直面しています。インバウンド需要の回復は喜ばしい一方で、現場の業務負荷は増大し、従業員の定着は総務人事部にとって喫緊の課題となっています。このような状況下で、単なる補充採用に終始するのではなく、戦略的な人材採用、教育、そして離職率の低減を実現することが、持続可能なホテル経営の鍵を握ります。
先日発表されたJLLの調査レポート「Asia Pacific Hotel Operators Confident in Sector’s Resilience in 2026 despite headwinds」は、この課題に対して示唆に富む内容を含んでいます。レポートによれば、アジア太平洋地域のホテルオペレーターの半数が、従業員がより良い報酬パッケージを求めて離職していると回答しています。しかし興味深いことに、給与の引き上げは、オペレーターが人材を定着させるために実施している対策の中で5位に留まっているのです。これは、離職の主要因が報酬であるにもかかわらず、多くのホテルが報酬以外の対策を優先しているという「潜在的な断絶」を示唆しています。総務人事部はこの断絶をどのように認識し、どのように埋めていくべきでしょうか。本稿では、この「潜在的な断絶」を解消し、人材の採用、育成、定着を強化するための具体的な戦略を深く掘り下げていきます。
離職理由の「深層」を理解する:報酬とそれ以外の要因
JLLの調査が示す通り、報酬は従業員が離職を考える上で極めて大きな要因です。特に、他業界や競合ホテルと比較して給与水準が見劣りする場合、優秀な人材の流出は避けられません。しかし、現場のリアルな声に耳を傾けると、報酬だけが全てではないことが分かります。多くの従業員は、以下のような「見えない不満」や「潜在的なニーズ」を抱えています。
- キャリアパスの閉塞感:「このホテルで働き続けて、どのようなスキルが身につき、どのような役職に就けるのかが見えない」という不安。
- 過度な業務負荷:人材不足による一人当たりの業務量増加、長時間労働、休憩の取りにくさなど。
- 評価制度への不満:「頑張りが正当に評価されていない」「評価基準が曖昧」といった不信感。
- 成長機会の欠如:新しい知識やスキルを習得する機会が少ないと感じる。
- 人間関係や職場環境:ハラスメント、コミュニケーション不足、チームワークの欠如など。
総務人事部は、この多層的な離職理由を正確に把握するためのアプローチを強化する必要があります。定期的な従業員エンゲージメントサーベイ、退職者への出口調査、そして何よりも現場マネージャーを通じた定期的な1on1ミーティングの充実が不可欠です。これらの情報から、自社の「潜在的な断絶」がどこにあるのかを特定し、対策を講じる第一歩とすべきです。
「断絶」を埋める戦略1:報酬体系の再構築と透明性
JLLの調査が指摘する「給与が離職の主要因であるにもかかわらず、給与引き上げが対策の5位に留まる」という現状は、総務人事部が経営層に対し、報酬戦略の重要性をデータで提言する役割を強く求めています。報酬体系の再構築は、単なるコスト増ではなく、優秀な人材を惹きつけ、定着させるための「戦略的投資」と位置づけるべきです。
市場競争力のある報酬水準の確保
自社の給与水準が、競合するホテルチェーンや独立系ホテル、さらにはサービス業界全般と比較してどの位置にあるのかを定期的にベンチマークすべきです。物価上昇や社会情勢も考慮し、生活水準を維持できるだけの適正な報酬を提供することは、従業員の生活基盤を支え、安心して働いてもらうための最低条件です。また、インフレ率や地域ごとの最低賃金の上昇も踏まえ、定期的な給与見直しを計画的に行う必要があります。
評価制度と連動した昇給・昇格の透明化
従業員は、自身の努力がどのように評価され、それが報酬やキャリアにどう反映されるのかを知りたいと考えています。曖昧な評価基準や不透明な昇給・昇格プロセスは、不公平感を生み、モチベーション低下や離職に直結します。総務人事部は、具体的な目標設定と評価基準を明確にし、そのプロセスを従業員に開示することで、納得感と公平性を高めるべきです。成果を出した従業員が正当に報われる仕組みを構築することは、組織全体のパフォーマンス向上にも寄与します。
給与以外のベネフィットの充実と可視化
基本給だけでなく、住宅手当、食事補助、交通費、インセンティブ、従業員割引、健康診断の充実、福利厚生サービスへの加入など、給与以外のベネフィットも重要な報酬の一部です。これらのベネフィットを充実させるだけでなく、従業員にその価値を正確に伝えることが重要です。例えば、年間でどれくらいの経済的メリットがあるのかを具体的に示すことで、従業員の会社へのエンゲージメントを高めることができます。
「断絶」を埋める戦略2:キャリアパスの「可視化」と成長投資
ホテル業界は多様な職種とキャリアパスが存在する魅力的な業界です。しかし、現場で働くスタッフからは「将来が見えない」「今の仕事の先に何があるのか分からない」といった声が聞かれることも少なくありません。総務人事部は、このキャリアパスの「見えにくさ」を解消し、従業員の成長を支援するための具体的な投資を行うべきです。
多様なキャリアパスの明確な提示
フロント、料飲、宿泊予約、ハウスキーピングといった現場の職種から、レベニューマネージャー、デジタルマーケター、人事、総務、広報といった専門職、さらには本社部門や他ホテルへの異動、複合総支配人への昇進など、ホテル業界には多岐にわたるキャリアの選択肢があります。これらのパスを具体的に示し、それぞれの職務内容、必要なスキル、昇進の条件などを明文化することで、従業員は自身の将来像を描きやすくなります。
ポータブルスキルの育成支援
ホテル業務で培われるスキルは、コミュニケーション能力、問題解決能力、異文化理解、ホスピタリティ精神、状況判断力など、他業界でも通用する汎用性の高い「ポータブルスキル」の宝庫です。これらのスキルの重要性を従業員に伝え、その育成を積極的に支援することで、従業員は自身の市場価値を認識し、キャリアに対する不安を軽減できます。例えば、外部研修への参加支援や、資格取得奨励制度の導入などが考えられます。
体系的な教育プログラムとデジタル学習の活用
OJT(On-the-Job Training)は重要ですが、それだけでは体系的な知識やスキルの習得には限界があります。Off-JT(Off-the-Job Training)としての座学研修、eラーニング、外部講師を招いた専門研修などを組み合わせ、継続的な学習機会を提供すべきです。特に、2025年ホテリエの成長戦略:デジタル学習が創る「ポータブル資格」と「キャリアデザイン」でも言及されているように、デジタル学習は、時間や場所の制約を越えて従業員が自身のペースでスキルアップできる有効な手段です。語学学習、ITスキル、マネジメントスキルなど、多岐にわたるコンテンツを提供することで、従業員の自律的な成長を促します。
メンター制度やコーチングの導入
経験豊富な先輩社員が新入社員や若手社員のメンターとなり、キャリア形成や日々の業務の相談に乗るメンター制度は、従業員の定着率向上に大きく貢献します。また、個々の従業員の強みや課題を見極め、目標達成を支援するコーチングも有効です。これらの個別支援を通じて、従業員は自身の成長を実感し、ホテルへの帰属意識を高めることができます。
ホテル「専門人材」育成の新常識:総務人事が描く「キャリアパス」と「定着戦略」でも述べられているように、キャリアパスの明確化と成長機会の提供は、専門人材育成と定着の基盤となります。
「断絶」を埋める戦略3:テクノロジーによる「業務負荷軽減」と「価値創出」
人材不足が常態化する中で、既存のスタッフにかかる業務負荷は増大の一途を辿り、これが離職を加速させる悪循環を生んでいます。総務人事部は、テクノロジーを戦略的に導入することで、この業務負荷を軽減し、スタッフがより「人間的価値」の高い業務に集中できる環境を整備すべきです。
AIや自動化技術による定型業務の削減
チェックイン/アウト、予約管理、顧客からの問い合わせ対応、清掃指示、在庫管理など、ホテル業務には多くの定型業務が存在します。これらにAIチャットボット、自動チェックイン機、RPA(Robotic Process Automation)などを導入することで、スタッフはこれらの業務から解放されます。例えば、AIがゲストの簡単な問い合わせに24時間対応することで、フロントスタッフはより複雑な要望への対応や、ゲストとの深いコミュニケーションに時間を割くことが可能になります。
2026年ホテルテック予測の深層:AIが変革する「運営」と「おもてなし」やホテル未来戦略2025:AIと自動化が拓く「スタッフ解放」と「感動体験」でも指摘されている通り、テクノロジーはスタッフを「作業」から解放し、「おもてなし」の本質に集中させるための強力なツールとなり得ます。
システム連携による情報共有の円滑化と業務効率化
PMS(Property Management System)、POS(Point of Sale)、GMS(Guest Management System)といった基幹システムがそれぞれ独立して稼働している場合、情報連携に手間がかかり、スタッフの業務負荷を増大させます。これらのシステムを統合または連携させることで、顧客情報、予約状況、清掃状況などがリアルタイムで共有され、業務の無駄が削減されます。例えば、ハウスキーピングスタッフがタブレットで清掃状況を更新すれば、フロントは即座に客室の準備状況を把握でき、ゲストを待たせることなく案内できます。これにより、現場スタッフが「システムに振り回される」のではなく、「システムを使いこなす」状態を目指すことができます。
テクノロジー導入時の「現場の声」への配慮
新しいテクノロジーの導入は、現場スタッフにとって「使いこなせない」「かえって手間が増える」といった抵抗感や学習コストを生むことがあります。総務人事部は、導入プロセスにおいて現場スタッフの意見を積極的に吸い上げ、彼らが使いやすいUI/UXの選定、丁寧なトレーニング、導入後の継続的なサポートを徹底すべきです。テクノロジーはあくまで「手段」であり、従業員の「働きやすさ」と「ゲストへの価値提供」という目的を見失わないことが重要です。
「断絶」を埋める戦略4:従業員エンゲージメントを高める「従業員体験(EX)」
報酬やキャリアパス、業務効率化といった具体的な施策に加えて、従業員が「このホテルで働きたい」と心から思えるような総合的な「従業員体験(EX:Employee Experience)」を設計することが、離職率低減と定着の最終的な決め手となります。総務人事部は、従業員がホテルで働く「意味」や「価値」を感じられるような環境づくりに注力すべきです。
心理的安全性の確保とフィードバック文化の醸成
従業員が安心して意見を言える、失敗を恐れずに挑戦できる、ハラスメントのない職場環境は、従業員エンゲージメントの基盤です。上司と部下の定期的な1on1ミーティングを通じて、日々の業務の悩みやキャリアの相談ができる場を設けることはもちろん、建設的なフィードバックを日常的に行い、従業員の成長を促す文化を醸成することが重要です。これにより、従業員は自身の貢献が認められていると感じ、組織への帰属意識を高めます。
ワークライフバランスの推進
ホテル業界はシフト勤務が基本であり、ワークライフバランスの確保が難しいとされてきました。しかし、従業員の定着を考える上で、柔軟な働き方を追求することは不可欠です。シフトの柔軟化、有給休暇取得の奨励、連休の取得推進、育児・介護休業制度の充実など、従業員が仕事と私生活を両立できるような制度設計と運用が求められます。一部の職種では、リモートワークの導入も検討する価値があるでしょう。
従業員の健康とウェルビーイングへの配慮
身体的・精神的な健康は、従業員が最高のパフォーマンスを発揮するための前提です。定期健康診断の充実、ストレスチェックの実施、産業医やカウンセラーとの連携による相談窓口の設置、健康増進プログラムの提供など、従業員のウェルビーイングをサポートする取り組みを強化すべきです。
ホテル人財戦略の新潮流:総務人事が創る「従業員体験」と「持続可能な成長」でも強調されているように、従業員体験の向上は、顧客体験の向上と持続可能な成長に直結します。
採用戦略の再定義:魅力的なホテルブランドの構築
離職率を低減させる一方で、優秀な人材を継続的に採用することも総務人事部の重要なミッションです。人材不足が深刻化する中、採用は「待つ」のではなく「攻める」姿勢が求められます。
ホテルの魅力を多角的に発信
ホテル業界の仕事は、ゲストに感動を提供するやりがいのある仕事であり、多様なスキルが身につく魅力的なキャリアパスを提供します。しかし、その魅力が十分に伝わっていないのが現状です。総務人事部は、自社の企業文化、福利厚生、具体的なキャリアパス、地域貢献活動などを積極的に発信し、ホテルで働くことの価値を再定義すべきです。公式ウェブサイトだけでなく、SNS(Instagram, X, TikTokなど)を活用し、従業員のリアルな声や働く様子を伝えるコンテンツは、求職者にとって大きな魅力となります。
ターゲット層の拡大と採用チャネルの多様化
新卒学生だけでなく、他業界からの転職者、子育て中の主婦(夫)、シニア層、外国人材など、多様なバックグラウンドを持つ人材を積極的に採用ターゲットとすべきです。それぞれのターゲット層に合わせた採用チャネル(転職サイト、人材紹介、ハローワーク、外国人材専門エージェント、大学との連携など)を活用し、採用の間口を広げます。
2025年ホテル人材不足の打開策:WEB戦略が拓く「顧客」と「採用」の同時獲得でも指摘されているように、WEB戦略は顧客だけでなく、採用においても強力なツールとなります。
採用プロセスにおける候補者体験(CX)の向上
採用プロセス自体が、ホテルのブランドイメージを形成します。迅速な選考、丁寧なコミュニケーション、透明性の高い情報提供など、候補者に対して質の高い体験を提供することは、入社後のエンゲージメントにも繋がります。オンライン面接の導入や、ホテル見学の機会提供など、候補者がホテルの雰囲気をより深く理解できるような工夫も重要です。
まとめ
ホテル業界における人材の採用、育成、そして離職率の低減は、一朝一夕に解決できる課題ではありません。JLLの調査が明らかにした「報酬が離職の主要因であるにもかかわらず、報酬以外の対策が優先されている」という「潜在的な断絶」を総務人事部が直視し、多角的なアプローチで戦略を再構築することが不可欠です。
報酬体系の再構築と透明性の確保、キャリアパスの可視化と成長機会への投資、テクノロジーによる業務負荷軽減と価値創出、そして従業員エンゲージメントを高める「従業員体験(EX)」の設計。これら全てが有機的に連携することで、従業員は自身の仕事に「意味」と「価値」を見出し、ホテルへの貢献意欲を高めます。そして、魅力的なホテルブランドを構築し、多様な採用戦略を展開することで、新たな人材を惹きつけ、持続可能な成長へと繋がるでしょう。
総務人事部は、単なる管理部門ではなく、ホテル経営の根幹を支える「人財戦略の要」として、経営層と現場の橋渡し役を担い、データに基づいた戦略的な提言と実行を通じて、ホテル業界の未来を切り拓いていくことが求められています。
コメント