はじめに
2025年現在、ホテル業界はかつてないほどの変化の波に直面しています。インバウンド需要の回復、国内旅行の多様化、そして労働力不足といった複合的な要因が、ホテル運営に新たな課題と機会をもたらしています。このような状況下で、多くのホテルが再考を迫られているのが、オンライン旅行代理店(OTA)との関係性です。OTAは、その広範な集客力と利便性から、ホテルにとって不可欠な販売チャネルとして機能してきました。しかし、高額な手数料やブランドコントロールの難しさといった問題も同時に抱えています。
近年、ホテル側がOTAへの依存度を減らし、自社の直販チャネルを強化する動きが顕著になっています。これは単なるコスト削減に留まらず、ホテルのブランド価値を確立し、顧客とのより深く持続的な関係を築くための、本質的な運営戦略へとシフトしていることを示唆しています。本稿では、ホテル業界におけるこの「OTA依存からの脱却」というトレンドに焦点を当て、特にテクノロジーに過度に依存しない、人間中心のアプローチと運営戦略について考察します。
OTA依存からの脱却:なぜ今、ホテルは「自立」を求めるのか
ホテル業界におけるOTAの存在感は圧倒的です。特にBooking.comのような大手OTAは、世界中の旅行者にとって宿泊施設を探す際の主要なプラットフォームとなっています。しかし、この利便性の裏側には、ホテル運営者にとって無視できない課題が存在します。
観光経済新聞が2025年9月3日に報じた記事は、この状況を端的に示しています。
Booking.com とホテル、ますます異なる道を進む – 観光経済新聞
ホテルは、オンライン旅行代理店(OTA)、特にBooking.comからの売上が大幅に減少したと報告しています。これは、近年、他のより広範な業界のトレンドとともに、ホテル側がOTA依存を減らす動きを強めてきたためです。
この記事が示すように、ホテルはOTAからの売上減少を報告しつつも、自らOTA依存を減らす動きを強めています。この背景には、OTAがもたらす以下の主要な課題があります。
- 高額な手数料: OTA経由の予約には、通常15%から30%に及ぶ手数料が発生します。これはホテルの収益性を大きく圧迫する要因となります。
- ブランドイメージの希薄化: OTAサイトでは、多くのホテルが横並びで比較され、価格競争に巻き込まれやすくなります。ホテルの持つ独自のブランドストーリーや個性が埋もれてしまい、単なる「宿泊場所」として認識されがちです。
- 顧客データの囲い込み: OTA経由の予約では、顧客データはOTAが管理することが多く、ホテル側が直接顧客の嗜好や行動履歴を把握し、パーソナライズされたサービスやマーケティングに活用することが困難になります。
- 価格コントロールの制約: 最安値保証などの契約条件により、直販チャネルでの価格設定の自由度が制限されることがあります。
これらの課題は、ホテルが長期的に持続可能な運営を目指す上で、看過できない問題として認識され始めています。特にブランド価値を重視するホテルや、リピーター育成を戦略の柱とするホテルにとって、OTA依存からの脱却は喫緊の課題となっているのです。
直販強化がもたらす本質的な価値
OTA依存からの脱却は、単に手数料を削減するという経済的な側面だけでなく、ホテル運営に多岐にわたる本質的な価値をもたらします。それはホテルの存在意義そのものを見つめ直し、顧客との関係性を再構築する機会となるでしょう。
収益性の向上とコントロール
最も直接的なメリットは、中間マージンを削減し、収益性を向上できる点です。直販チャネルでの予約が増えれば増えるほど、OTAに支払う手数料が減り、その分をホテルの運営改善や顧客体験向上に再投資できます。また、自社で価格設定を完全にコントロールできるため、市場の状況や需要に応じて柔軟な価格戦略を展開し、収益を最大化することが可能になります。
ブランド価値の確立と維持
直販チャネルは、ホテルの哲学、デザイン、サービス、そして地域との繋がりといった独自のブランドストーリーを、顧客に直接、かつ最も純粋な形で伝えるためのプラットフォームです。OTAサイトでは表現しきれないホテルの魅力を余すことなく伝え、顧客の心に響くメッセージを発信することで、単なる宿泊施設ではなく、唯一無二の存在としてのブランド価値を確立し、維持することができます。これは、老舗ホテルのブランド価値向上:技術に依存しない人間力と心に残る体験創造でも述べられているように、長期的な成功に不可欠な要素です。
顧客データの獲得と活用
直販予約を通じて得られる顧客データは、ホテルの運営にとって極めて貴重な資産です。顧客の氏名、連絡先、滞在履歴、好み、特別なリクエストなどを直接収集・分析することで、個々の顧客に合わせたパーソナライズされたサービスを提供するための基盤を築くことができます。これにより、顧客満足度を向上させ、リピート利用を促すことが可能になります。
顧客ロイヤルティの構築
顧客データに基づいたパーソナライズされたサービスと、ホテル独自のブランド体験は、顧客のホテルに対する愛着、すなわちロイヤルティを育みます。一度ロイヤルティが構築されれば、顧客は次の宿泊先を探す際に、まずそのホテルを検討するようになります。これは、新規顧客獲得にかかるコストを削減し、安定した収益源を確保する上で非常に重要です。また、ロイヤルティの高い顧客は、ポジティブな口コミや紹介を通じて、新たな顧客を呼び込む「ブランドアンバサダー」としての役割も果たしてくれます。
非テクノロジーで実現する直販強化戦略
OTA依存からの脱却と直販強化は、必ずしも最新のテクノロジーを導入することだけを意味しません。むしろ、ホテルが本来持つ「おもてなし」の精神と「人間力」を最大限に活かすことで、顧客の心に深く響く体験を提供し、直販へと繋げることが可能です。ここでは、テクノロジーに頼らない、あるいはテクノロジーを補完する形で実践できる直販強化戦略について考察します。
ブランドストーリーと体験価値の深化
ホテルは単に寝泊まりする場所ではなく、そこで過ごす時間そのものが価値となります。直販を強化するためには、まず自社のホテルがどのような「ストーリー」を持ち、どのような「体験」を提供したいのかを深く掘り下げ、明確にすることが重要です。
- ホテルのコンセプトを明確化する: どのようなゲストに、どのような目的で滞在してほしいのか。そのために、どのような空間、サービス、アメニティを提供するのかを具体的に言語化します。例えば、歴史ある建物を活かした趣のあるホテルであれば、その歴史的背景や建築様式にまつわる物語を語り、ゲストがその物語の一部となるような体験を演出します。
- 地域との連携を深める: ホテルが立地する地域の文化、歴史、自然、特産品などを積極的に取り入れ、ホテル独自の体験プログラムを開発します。地元の職人によるワークショップ、地域食材を使った料理教室、ガイド付きのウォーキングツアーなど、OTAでは提供しにくい、その土地ならではの深い体験は、ゲストにとって忘れられない思い出となり、直販を選ぶ強い動機となります。
- 五感を刺激する演出: 視覚的な美しさだけでなく、香り、音、触感、味覚といった五感に訴えかける演出も重要です。ロビーに漂うアロマ、心地よいBGM、地元の食材を活かした料理、肌触りの良いリネンなど、細部にまでこだわり、ホテル全体で一貫した世界観を創り出すことで、ゲストの記憶に深く刻まれる体験を提供します。
これらの取り組みは、ホテルの個性を際立たせ、ゲストが「このホテルだからこそ」という理由で選ぶ動機を創出します。
「人間力」による顧客エンゲージメントの最大化
テクノロジーが進化する現代において、人の手による温かいサービス、すなわち「人間力」は、ホテルの差別化において最も強力な武器となります。直販を強化する上で、スタッフ一人ひとりのホスピタリティが果たす役割は計り知れません。
- パーソナルな対応の徹底: ゲストの顔と名前を覚え、前回の滞在や好みを記憶し、それに基づいたパーソナルな声かけやサービスを提供します。例えば、チェックイン時に「〇〇様、おかえりなさいませ。前回お気に召された〇〇をご用意しております」といった一言は、ゲストに深い感動と「大切にされている」という感覚を与えます。
- 先回りしたサービス提供: ゲストが言葉にする前に、そのニーズを察知し、先回りしてサービスを提供します。例えば、雨が降り始めたら傘を差し出す、観光から戻ったゲストに温かいおしぼりを提供するなど、細やかな気配りは、ゲストの期待を大きく上回る満足度へと繋がります。
- スタッフが「ホテルの顔」となる: スタッフはホテルのブランドを体現する存在です。個々のスタッフがホテルの理念を理解し、自信と誇りを持ってゲストと接することで、ホテル全体の信頼性と魅力を高めます。ゲストとの会話の中から、その土地の隠れた魅力を紹介したり、個人的なおすすめを伝えたりすることで、単なる情報提供に留まらない、心に残る交流を生み出します。
このような人間中心のサービスは、ゲストに「またこのホテルに泊まりたい」「このスタッフに会いたい」と思わせる強い動機となり、結果的に直販へのリピートを促します。
記憶に残る「体験」の創造と提供
直販を促すためには、OTAでは得られない、ホテル独自の特別な「体験」を創造し、提供することが不可欠です。それは単なるサービスを超えた、感情に訴えかける瞬間を意味します。
- ホテル独自のプログラムやイベント: 季節ごとの特別なイベント、地元の文化に触れるワークショップ、シェフによる料理デモンストレーションなど、ホテルが主催するユニークなプログラムは、ゲストにとって滞在の付加価値となります。これらの情報は直販チャネルで優先的に告知し、予約特典とすることで、直販への誘導を強化できます。
- サプライズと感動の演出: ゲストの誕生日や記念日にサプライズの演出を用意したり、予期せぬ小さなギフトを贈ったりするなど、心温まるサプライズは、ゲストの記憶に深く刻まれます。これは、ホテルに「遊び心」と「サプライズ」を:顧客の心に響く体験を創造する人間力戦略でも言及されている通り、人間力によって生み出される価値です。
- 滞在前後のエンゲージメント: 予約完了後からチェックインまでの間に、ウェルカムメールでホテルの魅力を紹介したり、周辺の観光情報をパーソナライズして提供したりすることで、ゲストの期待感を高めます。また、チェックアウト後には、感謝のメッセージとともに次回の滞在を促す特典を案内するなど、滞在期間外も顧客との関係性を維持する努力が重要です。
これらの体験は、ゲストがホテルを「特別な場所」として認識し、次回も直接予約しようと考える強い理由となります。
柔軟な価格設定と直販限定特典
価格は顧客が宿泊施設を選ぶ上で重要な要素ですが、直販においては単に安さを追求するだけでなく、価格以上の「価値」を伝えることが重要です。OTAの手数料に縛られない自由な価格設定は、直販戦略の大きな武器となります。
- 直販限定のベストレート保証: OTAよりも直販の方が常に最安値であることを保証し、それを明確に提示します。これにより、ゲストは安心して直販チャネルを利用できるようになります。
- 直販予約者限定の特典: 価格だけでなく、直販ならではの付加価値を提供します。例えば、アーリーチェックイン・レイトチェックアウトの無料サービス、客室のアップグレード、ウェルカムドリンクやアメニティの特別提供、レストランの割引、スパの無料利用など、ゲストにとって魅力的な特典を用意します。これらの特典は、OTA経由では得られない「特別感」を演出し、直販への動機付けとなります。
- パッケージプランの提供: 宿泊と食事、アクティビティ、スパなどを組み合わせた独自のパッケージプランを直販限定で提供します。これにより、単価を上げつつ、ゲストにトータルな体験価値を提供することができます。
価格競争に巻き込まれず、ホテルの価値を正しく伝え、それに見合った価格設定と特典を提供することで、直販の魅力を高めることができます。
顧客ロイヤルティプログラムの充実
一度宿泊したゲストをリピーターにするためのロイヤルティプログラムは、直販戦略の中核をなします。長期的な顧客関係を構築することで、安定した収益源を確保し、口コミによる新規顧客獲得にも繋がります。
- 会員制度の導入と特典: 会員登録を促し、会員限定の割引、ポイント制度、優先予約、バースデー特典などを提供します。会員ランクに応じて特典をアップグレードすることで、継続的な利用を促します。
- パーソナルなコミュニケーション: 会員に対しては、過去の滞在履歴や好みに基づいたパーソナルな情報提供やオファーを行います。例えば、「前回ご利用いただいた〇〇のプランが、〇〇様向けに特別価格で再登場しました」といったメッセージは、顧客に特別感を与え、再訪を促します。
- コミュニティ形成: 会員限定のイベント開催や、SNSグループへの招待など、ホテルを中心としたコミュニティを形成することで、顧客のホテルへの帰属意識を高めます。これにより、単なる顧客ではなく、「ファン」としての関係性を築くことができます。
これらのロイヤルティプログラムは、ゲストがホテルを「自分の場所」と感じ、継続的に利用する理由を創出します。
OTAとの戦略的共存の道
OTA依存からの脱却を目指す一方で、OTAを完全に排除することが常に最善の策とは限りません。OTAは依然として広範なリーチと集客力を持っており、特に新規顧客の獲得や特定の市場へのアプローチにおいて有効なツールであり続けます。重要なのは、OTAを「必要な販路の一つ」と位置付け、戦略的に活用することです。
- 認知度向上のための活用: 特に新規開業ホテルや、これまでリーチできていなかった市場への参入において、OTAは強力なマーケティングツールとなり得ます。OTAを通じてホテルの存在を知ってもらい、その上で直販チャネルへと誘導する戦略を立てます。
- 閑散期の集客補完: 需要が低い時期や、特定の客室タイプが埋まりにくい場合に、OTAを活用して稼働率を補完します。ただし、この際も直販との価格差や特典のバランスを慎重に検討し、直販の優位性を損なわないように配慮が必要です。
- 特定の市場へのアプローチ: 海外からのインバウンド客や、特定のニッチな旅行層など、自社のマーケティングではリーチしにくい市場に対しては、OTAの専門性を活用することも有効です。
- 直販とのバランスの最適化: OTA経由の予約と直販チャネルの予約の割合を定期的に分析し、最適なバランスを模索します。OTAを完全に手放すのではなく、あくまで「補助的な販売チャネル」として位置づけ、ホテルのブランド価値と収益性を最大化するポートフォリオを構築することが賢明です。
OTAとの関係性は、常に変化する市場環境とホテルの戦略に応じて見直されるべきものです。完全に敵対するのではなく、賢く共存する道を探ることが、持続可能な運営には不可欠と言えるでしょう。
まとめ:持続可能なホテル運営のために
2025年、ホテル業界はOTA依存からの脱却という大きな転換期を迎えています。これは単なる販売戦略の見直しに留まらず、ホテルが自らのアイデンティティを再確認し、顧客との本質的な関係性を築き直すための重要なプロセスです。
テクノロジーの進化が目覚ましい現代においても、ホテルの運営において最も重要なのは、やはり「人間力」と「おもてなし」の精神です。ホテルの持つ独自のブランドストーリーを深く掘り下げ、スタッフ一人ひとりがその価値を体現し、ゲスト一人ひとりに寄り添ったパーソナルなサービスを提供することで、OTAでは決して真似できない、心に残る体験を創造することができます。このような体験こそが、ゲストに「このホテルだからこそ」という感動を与え、直販へのリピート、そして長期的なロイヤルティへと繋がるのです。
直販強化は、短期的な収益改善だけでなく、ホテルのブランド価値を確立し、顧客との強固な絆を築くことで、長期的に安定した、そして持続可能な運営を実現するための戦略的投資と言えるでしょう。OTAとの関係を戦略的に見直し、ホテル本来の魅力を最大限に引き出す非テクノロジーの運営戦略を追求することが、2025年以降のホテル業界で成功を収めるための鍵となるはずです。
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