「待ち」の育成では人は育たない。従業員の「キャリア自律」を促す新・人材開発論

宿泊業での人材育成とキャリアパス

深刻化する人材獲得競争、旧来の育成モデルは限界に

インバウンド需要の完全復活、国内旅行の活発化。ホテル業界がようやく長いトンネルを抜け、活気を取り戻しつつある一方で、多くのホテルが深刻な課題に直面しています。それは、人材の確保と定着です。厚生労働省の統計によれば、宿泊業・飲食サービス業の離職率は依然として他業種に比べて高く、人手不足はもはや恒常的な経営リスクとなっています。

多くのホテルでは、これまでOJT(On-the-Job Training)を主体とした画一的な研修プログラムや、年次を重ねることでステップアップしていく単線的なキャリアパスが一般的でした。しかし、このような「会社が与える」育成モデルは、現代の働き手の価値観と大きな乖離を生み始めています。先日、総合人材サービス企業ランスタッドのタレント部長である西野雄介氏が、日本ホテル協会主催のトップセミナーに登壇し、従業員にとっての「今」の価値観を捉えた人材採用と定着について講演したというニュースは、まさにこの課題の核心を突くものです。

変化の激しい時代において、従業員はもはや会社にキャリアを委ねるのではなく、自らの手で未来を切り拓きたいと願っています。彼らが求めるのは、安定した雇用だけでなく、「成長実感」や「市場価値の向上」です。この潮流を無視したままでは、優秀な人材を惹きつけ、長く活躍してもらうことは困難でしょう。今、ホテル業界の人事戦略に求められているのは、従業員を「管理・教育する対象」から、「自律的に成長するパートナー」へと捉え直す、根本的なパラダイムシフトなのです。本記事では、その鍵となる「キャリア自律」という概念に焦点を当て、これからのホテル業界に求められる新たな人材開発のあり方を深掘りします。

なぜ今、ホテル業界で「キャリア自律」が重要なのか?

「キャリア自律」とは、従業員一人ひとりが自身のキャリアに対して主体性を持ち、会社や組織に依存するのではなく、自らの意志と責任でキャリアを形成していく状態や考え方を指します。これは、単に転職を推奨するものではありません。むしろ、従業員が社内にいながらも、常に自身のスキルや経験をアップデートし、市場価値を高め続けることを支援する考え方です。

では、なぜこのキャリア自律が、今のホテル業界にとって不可欠なのでしょうか。理由は大きく3つあります。

1. 従業員エンゲージメントの向上と離職率の低下

自分のキャリアを自分でコントロールできるという感覚は、仕事に対するモチベーションとエンゲージメントを飛躍的に高めます。「この会社にいれば、自分の目指すキャリアを実現できる」「新しいスキルを身につけ、成長できる」と従業員が感じられれば、組織への帰属意識は強まり、安易な離職を防ぐことができます。画一的なキャリアパスしか提示できない企業と、多様な選択肢と成長機会を提供できる企業とでは、従業員の定着率に大きな差が生まれるのは必然です。

2. 変化に対応できる、しなやかな組織の構築

ホテル業界を取り巻く環境は、テクノロジーの進化、顧客ニーズの多様化、新たな競合の出現など、目まぐるしく変化しています。AIを活用したレベニューマネジメント、データに基づいたマーケティング戦略、サステナビリティへの対応など、求められるスキルも常に変化しています。従業員が自律的に学び、新しい知識やスキルを習得する文化が根付いていれば、組織全体として環境変化に迅速かつ柔軟に対応することが可能になります。これは、まさに「教える」研修の限界を超え、自走する組織を作る「ラーニングカルチャー」の醸成に他なりません。

3. 属人化からの脱却とイノベーションの創出

「おもてなし」という言葉に代表されるように、ホテル業務は個人の経験や勘に依存する部分が大きいとされてきました。しかし、キャリア自律を促す過程で、従業員は自身のスキルを客観的に棚卸し、体系化する必要に迫られます。このプロセスは、暗黙知を形式知に変え、組織全体のナレッジとして共有・蓄積することを促進します。また、多様なキャリアを目指す人材が集まることで、異なる視点やスキルが交差し、これまでになかった新しいサービスや業務改善のアイデアが生まれる土壌も育まれていくでしょう。

「待ち」の研修から「攻め」のリスキリング支援へ

従業員のキャリア自律を本気で支援するならば、人事部門は従来の研修体系を根本から見直す必要があります。会社が一方的に提供する集合研修やマニュアル教育だけでは、従業員の多様な「学びたい」というニーズに応えることはできません。必要なのは、「待ち」の姿勢から脱却し、従業員が自ら学びたいことを、いつでも、どこでも、好きなだけ学べる環境を「攻め」の姿勢で提供することです。

その核となるのが「リスキリング(Reskilling)」の支援です。リスキリングとは、現在の職業とは異なる、新しいスキルや知識を習得することを指します。特に、ホテル業界のDXが進む中で、全従業員に求められるのがデジタルリテラシーです。

例えば、コンシェルジュ部門のスタッフが、顧客データを分析するスキルを身につければ、よりパーソナライズされた提案が可能になります。マーケティング担当者が動画編集スキルを習得すれば、SNSでの発信力を強化できるでしょう。こうした「おもてなし」をデータで語る次世代のホテリエを育成することが、これからの競争優位性を築く上で不可欠です。

具体的な施策としては、以下のようなものが考えられます。

  • オンライン学習プラットフォームの導入: Udemy、Coursera、Schooといった外部の学習プラットフォームを法人契約し、従業員が自由に講座を選択・受講できる環境を整備する。プログラミングやデータ分析、語学、マーケティングなど、幅広い分野の学習機会を提供する。
  • 資格取得支援制度の拡充: 業務に直接関連する資格だけでなく、従業員が自身のキャリアプランに基づいて挑戦したいと考える資格についても、受験費用や報奨金で積極的に支援する。
  • 社内公募制度・FA制度の導入: 従業員が自らの意志で希望する部署やポジションに応募できる制度を導入し、キャリアチェンジの機会を社内で提供する。
  • 1on1ミーティングの質の向上: 上司が部下の業務進捗を管理する場ではなく、部下の中長期的なキャリアプランについて対話し、成長を支援するコーチングの場として1on1を再定義する。

キャリア自律を根付かせるための組織文化と制度設計

ただし、こうした制度を導入するだけでは、キャリア自律の文化は根付きません。最も重要なのは、従業員の挑戦を奨励し、失敗を許容する組織文化を醸成することです。新しいスキルを学んでも、それを実践する場がなければ意味がありません。未知の領域への挑戦には失敗がつきものであり、それを責めるのではなく、学びの機会として捉える風土が不可欠です。そのためには、心理的安全性の確保が全ての土台となります。

また、キャリアパスの多様性を可視化することも極めて重要です。ホテル業界のキャリアは、決して「現場スタッフ→マネージャー→支配人」という一本道だけではありません。レベニューマネジメント、デジタルマーケティング、ITシステム、人事、経理など、ホテルというビジネスを支える専門職は多岐にわたります。これらの多様なキャリアパスを従業員に明示し、それぞれの道でプロフェッショナルを目指せることを示す必要があります。場合によっては、業界の壁を越えた経験を積むことを奨励する「越境」キャリア戦略も、これからの時代には有効な選択肢となるでしょう。こうした取り組みは、次世代の経営幹部候補を育成するサクセッションプランニングにも繋がる、重要な一手です。

結論:人材開発は「コスト」から「未来への投資」へ

従業員のキャリア自律を促す取り組みは、短期的にはコストが増加するように見えるかもしれません。しかし、長期的な視点で見れば、これは企業の未来を創るための最も重要な「投資」です。自律的に学び、成長し続ける従業員は、組織にイノベーションをもたらし、変化への対応力を高め、結果として顧客に提供するサービスの価値を向上させます。

「今」の価値観を持つ従業員は、もはや会社にぶら下がる存在ではありません。彼らは、自らのキャリアの航海図を手に、成長という名の羅針盤を頼りに進む冒険家です。人事部門の役割は、その航海を管理・制限することではなく、最高の船(組織)と最新の航海術(スキル)、そして何よりも自由な航海を応援する文化を提供することにあります。従業員一人ひとりのキャリアの成功が、ホテルの成功に直結する。その好循環を生み出すことこそ、これからのホテル人事の最大のミッションと言えるでしょう。

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