「今の価値観」に応えよ。ホテル人事が見直すべきエンプロイー・エクスペリエンス戦略

宿泊業での人材育成とキャリアパス

「今の価値観」に応えよ。ホテル人事が見直すべきエンプロイー・エクスペリエンス戦略

ホテル業界は、インバウンド需要の回復という追い風を受けながらも、依然として深刻な人手不足という構造的な課題に直面しています。採用市場での競争は激化し、同時に、若手を中心に離職率の高さに頭を悩ませる人事担当者も少なくないでしょう。もはや、従来通りの採用・育成手法だけでは、優秀な人材を惹きつけ、定着させることは困難な時代に突入しています。

こうした中、非常に示唆に富むニュースが報じられました。総合人材サービス企業ランスタッドのタレント部長である西野雄介氏が、日本ホテル協会主催のトップセミナーに登壇し、「従業員にとっての『今』の価値観を捉えた人材採用と定着」について講演を行ったというものです。(参考ニュース:タレント部長西野雄介が日本ホテル協会トップセミナーに登壇。従業員にとっての「今」の価値観を捉えた人材採用と定着について講演 | ランスタッド株式会社のプレスリリース

この「今の価値観」というキーワードこそ、現代のホテル人事が向き合うべき最重要テーマと言えます。本記事では、この講演のテーマを深掘りし、従業員の価値観の変化を捉え、採用から定着までを一貫してデザインする「エンプロイー・エクスペリエンス(EX)」という概念を軸に、これからのホテル業界に求められる人事戦略を考察します。

なぜ、従来の「人事管理」は限界なのか?

これまで多くの企業では、従業員を「管理」の対象として捉え、給与や福利厚生といった条件面を整えることで満足度を高めようとするアプローチが主流でした。しかし、社会や働き手の価値観は大きく変化しています。特に、今後の労働市場の中心となるミレニアル世代やZ世代は、金銭的な報酬と同等、あるいはそれ以上に「働きがい」や「自己成長」、「良好な人間関係」を重視する傾向にあります。

彼らが求めるのは、単なる「労働の対価としての給与」ではなく、「この場所で働くこと自体の価値」です。具体的には、以下のような価値観が挙げられます。

  • 成長機会の実感:自分のスキルが向上し、キャリアアップの道筋が見えるか。
  • 貢献実感(パーパス):自分の仕事がホテルや顧客、ひいては社会にどのような価値をもたらしているか。
  • 心理的安全性:失敗を恐れずに意見を言え、自分らしくいられる職場環境か。
  • ウェルビーイング:心身ともに健康で、ワークライフバランスを保ちながら働けるか。
  • 公正な評価と承認:自分の頑張りが正当に評価され、認められているか。

これらの価値観の変化を無視したまま、「給料を払っているのだから働くのは当たり前」という旧来のスタンスを続ければ、従業員のエンゲージメントは低下し、静かに組織を去っていく「静かな退職(Quiet Quitting)」や、より良い環境を求めての早期離職を招くことは避けられません。関連記事:なぜ若手はすぐ辞める?Z世代の価値観から紐解く、ホテルの新・人材定着戦略

これからの人事の羅針盤「エンプロイー・エクスペリエンス(EX)」

こうした現代の従業員の価値観に応えるための新たな概念が「エンプロイー・エクスペリエンス(Employee Experience、EX)」です。EXとは、従業員がその企業で働く中で経験する、あらゆる出来事や感情の総体を指します。求人広告を目にする瞬間から、面接、入社、日々の業務、上司や同僚との関わり、評価、育成、そして退職に至るまで、そのすべてがEXを構成する要素です。

顧客体験(Customer Experience, CX)の向上が顧客満足度やロイヤリティを高めるのと同様に、EXの向上は従業員エンゲージメントや定着率を高め、ひいては生産性やサービスの質の向上につながります。つまり、EXへの投資は、巡り巡ってCXの向上、そしてホテルの収益向上に直結するのです。

人事部門は、もはや個別の施策を点で行うのではなく、従業員の入社から退職までの「旅(ジャーニー)」全体を俯瞰し、一貫したポジティブな体験をデザインする視点を持つ必要があります。

EXを向上させるための4つのフェーズ別アクションプラン

では、具体的にどのようにEXを向上させていけばよいのでしょうか。従業員ジャーニーを「採用」「オンボーディング」「育成・活躍」「定着」の4つのフェーズに分け、それぞれで取り組むべきアクションプランを解説します。

フェーズ1:採用|「選ばれる」ための魅力的な体験設計

採用活動は、候補者が企業と最初に接触する重要なタッチポイントです。ここでいかにポジティブな体験を提供できるかが、入社意欲を大きく左右します。

  • 魅力的なEVP(従業員価値提案)の発信:「このホテルで働くと、どのような素晴らしい経験や成長が得られるのか」を明確に言語化し、求人サイトやSNSで一貫して発信します。単なる労働条件だけでなく、企業のビジョンや文化、働く人の声を伝えることが重要です。
  • リアルな情報提供:良い面だけでなく、仕事の厳しさや乗り越えるべき課題についても正直に伝えることで、入社後のギャップを防ぎます。これは、ミスマッチによる早期離職を防ぐ上で極めて重要です。関連記事:「カルチャー採用」が鍵。辞めない組織を作る、次世代ホテル人材戦略
  • 迅速で丁寧な選考プロセス:選考結果の連絡が遅い、面接官の態度が横柄であるといったネガティブな体験は、候補者の志望度を著しく低下させます。候補者を「お客様」として捉え、敬意を持ったコミュニケーションを徹底しましょう。

フェーズ2:オンボーディング|「仲間」として迎え入れる最初の90日

入社後の約90日間は、新しい従業員が組織に馴染み、早期に戦力化できるかを決める極めて重要な期間です。ここで孤独感や不安を感じさせてしまうと、離職の大きな原因となります。

  • 体系的な導入プログラム:単なる業務マニュアルの読み合わせではなく、企業の理念や歴史、各部署の役割などを体系的に学ぶ機会を提供します。これにより、従業員は自分の仕事の全体像の中での位置づけを理解できます。
  • メンター制度の導入:業務の指導役とは別に、年齢の近い先輩社員などが精神的なサポートを行うメンターを配置します。業務以外の不安や悩みを気軽に相談できる相手がいることは、新入社員の心理的安全性を高めます。
  • 定期的な1on1ミーティング:上司が定期的に時間を確保し、新入社員の話に耳を傾ける場を設けます。業務の進捗確認だけでなく、困っていることや挑戦したいことなどをヒアリングし、孤立させないための重要なコミュニケーションです。

フェーズ3:育成・活躍|「成長」を実感できる仕組み

従業員が日々の業務を通じて成長を実感し、いきいきと活躍できる環境を整えることは、EXの中核をなす要素です。

  • キャリアパスの可視化:現場のスペシャリスト、マネジメント、本社部門など、多様なキャリアの選択肢と、そこに至るために必要なスキルや経験を明示します。これにより、従業員は将来の目標を描きやすくなります。
  • データに基づいたタレントマネジメント:個々の従業員のスキル、経験、キャリア志向などをデータで一元管理し、最適な人員配置や育成プランに活かします。勘と経験だけに頼らない、客観的な人材育成が可能になります。関連記事:脱・属人化。データで「育てる・活かす」タレントマネジメント戦略
  • 挑戦を促す文化の醸成:従業員の挑戦を奨励し、たとえ失敗してもそれを学びの機会として捉える文化を育みます。新しいサービスの提案や業務改善アイデアなどを歓迎する風土が、従業員の主体性を引き出します。

フェーズ4:定着|「働き続けたい」と思える関係性構築

従業員エンゲージメントを高め、組織への帰属意識を育むための継続的な取り組みが不可欠です。

  • エンゲージメントサーベイの活用:匿名のアンケートなどを通じて、従業員の満足度や組織に対するエンゲージメントを定期的に測定します。その結果を分析し、組織課題を特定して改善サイクルを回すことが重要です。関連記事:採用の前に『定着』を。従業員エンゲージメントという新常識
  • 公正で透明性の高い評価制度:評価基準が明確で、そのプロセスが従業員に理解されていることが、納得感とモチベーションにつながります。評価後のフィードバック面談も丁寧に行い、次の成長につなげる支援を行います。
  • 多様な働き方の許容:育児や介護など、ライフステージの変化に合わせた時短勤務や柔軟なシフト制度など、従業員一人ひとりの事情に寄り添う姿勢が、「この会社は自分を大切にしてくれる」という信頼感につながります。

まとめ:人材は「資本」。EXへの投資がホテルの未来を創る

人手不足が叫ばれる今、人材を単なる「労働力」や「コスト」として捉える時代は終わりました。従業員一人ひとりを、企業の最も重要な「資本」と位置づけ、その価値を最大化するための投資を行うという経営視点が不可欠です。

エンプロイー・エクスペリエンス(EX)の向上は、そのための最も効果的な戦略です。従業員が「このホテルで働けて良かった」「ここで成長し続けたい」と心から思えるような体験をデザインすること。それこそが、従業員の定着率を高め、サービスの質を向上させ、最終的には顧客に選ばれ続けるホテルの強固な基盤となるのです。まずは自社の従業員が、日々の仕事の中でどのような「体験」をしているのか、その声に真摯に耳を傾けることから始めてみてはいかがでしょうか。関連記事:ホテル業界の離職率を改善する「リテンション・マネジメント」とは? 人材育成とキャリアパス設計の具体策

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