「顧客視点」を従業員へ。EX(従業員エクスペリエンス)が創る、選ばれるホテルの条件

宿泊業での人材育成とキャリアパス

はじめに:なぜ今、「従業員エクスペリエンス(EX)」なのか?

インバウンド需要の完全回復、そして国内旅行の活発化。ホテル業界がようやく長いトンネルを抜け、活気を取り戻しつつある一方で、多くの人事担当者が頭を悩ませているのが、深刻な「人手不足」と「高い離職率」です。優秀な人材の確保はますます困難になり、採用した人材が定着せずに辞めてしまうという負のスパイラルは、現場の疲弊を招き、ひいては顧客サービスの質の低下にも直結しかねません。

この根深い課題を解決する鍵として、今注目されているのが「従業員エクスペリエンス(Employee Experience、以下EX)」という考え方です。EXとは、従業員がその企業で働く中で経験する、あらゆる接点の総和を指します。応募から面接、入社、日々の業務、評価、成長、そして退職に至るまで、そのすべてがEXを構成する要素です。

これまで多くのホテルが顧客体験(CX)の向上に心血を注いできましたが、これからはその視点を「従業員」に向けることが、企業の持続的な成長に不可欠となります。本記事では、ホテル会社の人事担当者様に向けて、なぜEXが重要なのか、そしてEXを高め、従業員に選ばれ、定着してもらうための具体的な戦略について深掘りしていきます。

ホテル業界でEXが不可欠である3つの理由

EX向上は、単なる福利厚生の充実や職場環境の改善といったレベルの話ではありません。それは、ホテルの根幹を支える経営戦略そのものです。

1. 従業員の幸福度が「おもてなし」の質を左右する

ハーバード・ビジネス・スクールのジェームス・L・ヘスケット教授らが提唱した「サービス・プロフィット・チェーン」という理論があります。これは、「従業員満足度(ES)→従業員の定着と生産性の向上→提供するサービスの価値向上→顧客満足度(CS)の向上→企業の利益と成長」という一連の因果関係を示したものです。

つまり、従業員が自らの仕事に誇りを持ち、会社から大切にされていると感じる(=EXが高い)ことで、彼らのエンゲージメントは向上します。そして、エンゲージメントの高い従業員は、マニュアルを超えた自発的で心のこもった「おもてなし」を顧客に提供します。この質の高いサービスこそが、顧客ロイヤルティを生み、ホテルの収益を最大化する源泉となるのです。最高の顧客体験は、最高の従業員体験から生まれると言っても過言ではありません。

2. Z世代・ミレニアル世代の価値観の変化への対応

労働市場の主役となりつつあるZ世代やミレニアル世代は、仕事に対して従来の世代とは異なる価値観を持っています。彼らは給与や待遇といった金銭的報酬だけでなく、「仕事のやりがい」「自己成長の実感」「良好な人間関係」「企業のビジョンや社会貢献への共感」といった非金銭的な報酬を強く求める傾向にあります。

画一的なキャリアパスやトップダウンの組織文化は敬遠され、個人の成長を支援し、多様な働き方を認め、オープンなコミュニケーションが取れる職場環境が選ばれます。EXを高める取り組みは、まさにこうした新しい世代の価値観に応えるものであり、彼らから「働きたい」と思われる魅力的な職場を作るための必須条件なのです。

3. 採用競争における強力な武器となる

SNSの普及により、企業の内部情報は瞬く間に拡散される時代になりました。従業員が自社の働きがいや職場環境について発信するポジティブな口コミは、何よりも雄弁な採用ブランディングとなります。「あのホテルは従業員を大切にしている」「成長できる環境がある」といった評判は、優秀な人材を引きつける強力な磁石となります。

逆に、ネガティブな評判は採用活動に深刻なダメージを与えます。EXを高め、従業員が自社の「ファン」となるような組織作りは、激化する人材獲得競争を勝ち抜くための最も効果的な戦略の一つです。

従業員ジャーニーに沿ったEX向上戦略

では、具体的にどのようにEXを向上させていけば良いのでしょうか。ここでは、従業員が組織と関わる一連の流れである「従業員ジャーニー」の各段階に沿って、具体的な施策を見ていきましょう。

ステージ1:採用・候補者体験 (Candidate Experience)

EXは、応募者が企業の求人情報に触れた瞬間から始まっています。煩雑な応募プロセス、レスポンスの遅い対応、一方的な面接などは、たとえ内定を出したとしても、入社意欲を削ぎ、企業のイメージを損ないます。

  • 応募プロセスのDX化:スマートフォンで完結する応募フォームや、ATS(採用管理システム)の導入により、候補者の負担を軽減し、人事担当者の管理業務を効率化する。
  • 迅速かつ丁寧なコミュニケーション:応募後の自動返信メールや、選考結果の迅速な通知など、候補者を不安にさせない配慮を徹底する。
  • 魅力的な面接体験:面接は「選考の場」であると同時に「魅力付けの場」です。候補者の経験やスキルに真摯に耳を傾け、ホテルのビジョンや仕事のやりがいを熱意をもって伝えることで、ポジティブな体験を提供します。

ステージ2:オンボーディング体験 (Onboarding Experience)

従業員の早期離職を防ぐ上で最も重要なのが、入社後の体験です。過去の記事「入社後90日が勝負。戦略的オンボーディングがホテルの離職率を劇的に改善する」でも触れた通り、この期間の体験が定着を大きく左右します。

  • 歓迎する文化の醸成:入社初日にウェルカムキットを用意したり、チーム全体で歓迎ランチ会を開いたりと、組織の一員として迎え入れられているという実感を持たせることが重要です。
  • 企業文化への没入:ホテルの歴史や理念、ブランドが大切にしている価値観を伝える研修を実施し、業務知識だけでなく、企業文化への共感を促します。自社ホテルへの宿泊体験も効果的です。
  • 精神的なサポート体制:直属の上司とは別に、年齢の近い先輩社員が相談役となる「メンター制度」を導入し、新入社員の不安や孤独感を解消します。

ステージ3:成長・活躍体験 (Development & Performance Experience)

従業員が「この会社で働き続けたい」と思うためには、自身の成長を実感できる機会が不可欠です。

  • 明確なキャリアパスの提示:現場のオペレーションスタッフから、スーパーバイザー、マネージャー、そして総支配人へと続く道筋や、料飲、セールス、マーケティングといった専門職への道など、多様なキャリアパスを設計・明示することで、将来への見通しと学習意欲を高めます。
  • 継続的なフィードバック:年に1、2回の形式的な人事考課だけでなく、上司と部下が定期的に1on1ミーティングを行い、日々の業務の振り返りや目標設定、キャリア相談を行う文化を根付かせます。
  • 学習機会の提供:LMS(学習管理システム)を導入し、接客スキルや語学、マネジメントなど、階層や職種に応じた多彩な研修プログラムをオンラインで提供し、自律的な学習を支援します。若手にも責任ある仕事を任せ、リーダーシップを発揮する機会を創出することも重要です。

ステージ4:職場環境・文化体験 (Workplace & Culture Experience)

日々の業務を行う物理的・心理的な環境もEXの重要な要素です。特にホテル業界は、長時間労働や不規則なシフト、感情労働といった負担が大きい職種でもあります。

  • テクノロジーによる業務負荷の軽減:予約管理やレベニューマネジメント、顧客管理などのバックオフィス業務をDX化し、従業員が「人でなければできない仕事」、すなわちおもてなしに集中できる環境を整備します。
  • 心理的安全性の確保:役職や立場に関わらず、誰もが自由に意見を言え、失敗を恐れずに挑戦できる組織風土を醸成します。ハラスメント防止策の徹底も不可欠です。
  • 公正な評価と承認の文化:成果や貢献が正当に評価され、報酬に反映される透明性の高い評価制度を構築します。また、日々の良い働きぶりを上司や同僚が認め、称賛する「承認の文化」を育むことも、従業員のモチベーションを高めます。

ステージ5:退職体験 (Offboarding Experience)

従業員の退職は、企業にとって損失ですが、その最後の体験を良いものにすることで、未来の資産に変えることができます。

  • 円満な退職プロセスの設計:退職が決まった従業員に対して、感謝の意を伝え、最後まで敬意をもって接します。退職面談では、理由を真摯にヒアリングし、組織の課題発見と改善に繋げます。
  • アルムナイ(卒業生)ネットワークの構築:退職後も良好な関係を維持し、アルムナイ向けのイベント開催や情報提供を行うことで、将来的な再雇用(カムバック採用)や、ビジネスパートナーとしての協業、あるいは自社の良き評判を広めてくれるアンバサダーとしての役割を期待できます。

まとめ:EXは未来への投資である

従業員エクスペリエンス(EX)の向上は、一朝一夕に実現できるものではありません。採用から退職まで、従業員ジャーニーのあらゆる段階で、一貫した思想のもと、地道な改善を積み重ねていく必要があります。それは、人事部門だけの仕事ではなく、経営層から現場のマネージャーまで、組織全体で取り組むべき課題です。

しかし、その努力は必ず報われます。EXの高い企業は、従業員のエンゲージメントと定着率を高め、質の高いサービスを通じて顧客満足度を向上させ、最終的に企業の収益とブランド価値を押し上げます。

これからの人事担当者には、単なる「管理者」ではなく、従業員一人ひとりの体験をデザインする「エクスペリエンス・デザイナー」としての役割が求められています。顧客に最高の体験を届けるために、まずは自社の従業員に最高の体験を提供することから始めてみてはいかがでしょうか。

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