はじめに
2025年、ホテル業界はかつてないほどの変革期を迎えています。単に宿泊施設を提供するだけでなく、ゲストの記憶に深く刻まれる「体験」を創造することが、ホテルの存在意義となりつつあります。特に、旅行者の価値観や行動様式が多様化し、従来の画一的なマーケティング戦略では、もはやゲストの心をつかむことは困難です。
本稿では、最新の調査結果を基に、現代の旅行者が何を求め、どのように旅を計画し、体験を共有しているのかを深掘りします。そして、ホテルがこれらの変化にどう対応し、持続可能な成長を遂げるためのマーケティング戦略を構築すべきかについて考察していきます。
旅行者行動の変容:Skiftの新研究が示す「アイデンティティ、影響力、発見」
2025年9月14日、旅行業界の動向を分析するSkiftが発表した最新の研究「New Research: How Identity, Influence, and Discovery Are Reshaping Leisure Travel」は、レジャー旅行の未来を形作る3つの重要な要素として、「アイデンティティ(Identity)」「影響力(Influence)」「発見(Discovery)」を挙げています。
記事内容の要約
この研究は、旅行者の考え方がどのように進化しているか、旅行の発見と計画がどのように融合しているか、そしてこれらの変化の結果として彼らが何をしているかを検証しています。最終的に、旅行のマーケターや広告主が顧客の多様な経路をどのようにナビゲートし、彼らを引き付け、エンゲージするための新しい機会を特定できるかを考察しています。
また、この研究は、旅行マーケターにとって戦略的かつ戦術的な意味を持つトレンドを明らかにしており、マーケティングの効果は、ストリーミング、ソーシャルメディア、リテールメディア、オンライン旅行代理店、ブランドサイトなど、複数のプラットフォームでインスピレーション、関連性、コンバージョンを一致させることに依存すると述べています。マーケターにとっての中心的な問いは、「この広告をどこに配置すべきか?」から、「オーディエンスが次の旅行を想像し、計画するのに最もオープンな状態であるとき、どこにいる可能性があり、その瞬間に彼らが行動を起こすのをどのように助けるか?」へと変化していると結論付けています。
「アイデンティティ」としての旅行
現代の旅行者は、旅を通じて自己を表現し、自身の価値観やライフスタイルを反映させたいと強く願っています。単なる観光地の羅列や画一的なツアーでは満足せず、パーソナルな成長、精神的な充足、あるいは特定のコミュニティへの帰属感を求める傾向が顕著です。例えば、サステナブルな旅を意識し、環境負荷の少ないホテルを選んだり、地元の文化や社会に貢献できる体験を積極的に選んだりする層が増えています。彼らにとって旅行は、自分自身を再発見し、成長させるための手段であり、その選択一つ一つが自身の「アイデンティティ」を形成する重要な要素となるのです。
「影響力」が購買行動を左右する
ソーシャルメディアは、旅行のインスピレーション源として絶大な影響力を持つようになりました。友人や信頼するインフルエンサーの投稿、そして一般のユーザーが生成するコンテンツ(UGC:User Generated Content)が、旅行先の選定や宿泊施設の決定に大きく寄与します。従来の広告のようにホテルが発信する情報だけでなく、実際にその場所を訪れた「誰か」のリアルな体験談が、より信頼性の高い情報として重視されるのです。例えば、Instagramの美しい写真やTikTokの短い動画が、瞬く間に旅行意欲を掻き立て、予約行動へと繋がるケースは枚挙にいとまがありません。
「発見」への欲求
計画された完璧な旅だけでなく、予期せぬ出会いや偶然の発見に価値を見出す旅行者が増えています。事前に全てが決められたパッケージツアーよりも、自分の足で街を探索し、隠れた名店を見つけたり、地元の人々との予期せぬ交流を楽しんだりすることに喜びを感じるのです。オフザビートゥンパス(定番から外れた場所)を探索したり、地元の文化に深く触れる体験を求めたりする傾向が強まっています。このような「発見」は、旅行をより個人的で記憶に残るものにし、単なる消費ではなく、自己の体験価値を高めるものとして認識されています。
現場のリアル:データと人間力の狭間で
これらの旅行者行動の変容は、ホテルの運用現場に直接的な影響を与えています。マーケティング部門は、高度なデータ分析ツールやAIを駆使して顧客の行動パターンを把握しようと努めるものの、データだけでは捉えきれない「個人の深層心理」や「その瞬間の感情」が存在します。
マーケティング部門の課題
あるラグジュアリーホテルのマーケティング担当者は、こう語ります。「データは素晴らしいが、結局のところ、ゲストが何を本当に求めているのか、その一歩先のニーズを読み解くのは難しい。AIが『このゲストは〇〇に興味がある』と示しても、それが本当に今の旅行で求めているものなのかは、人間が対話しないと分からないことも多い」。テクノロジーは効率化と予測分析に貢献しますが、最終的な顧客理解には人間の洞察力が不可欠なのです。
フロントやコンシェルジュのリアルな声
現場のスタッフは、日々のゲストとの対話を通じて、この「深層心理」に触れる機会が最も多いでしょう。ベテランコンシェルジュは「お客様は『おすすめのレストランは?』と尋ねるが、実は『地元の人しか知らないような、本当に美味しい隠れた名店』を探していることが多い。マニュアル通りの回答では満足してもらえない」と、その難しさを語ります。ゲストのわずかな表情の変化や言葉のニュアンスから、真のニーズを察知する「人間力」が不可欠となります。
テクノロジーは、パーソナライゼーションを支援する強力なツールです。CRMシステムはゲストの過去の滞在履歴や嗜好を記録し、AIはそれを分析して最適なレコメンデーションを生成します。しかし、過度なデータ収集はゲストのプライバシー意識を高め、不信感を生む可能性もあります。どこまでが「おもてなし」で、どこからが「監視」と捉えられるのか、その境界線を見極める繊細さが求められます。
また、ホテル業界データサイロ化:競争優位と人間中心ホスピタリティを創る統合戦略でも指摘されているように、データが部門間で分断されている状況では、一貫したゲスト体験を提供することは極めて困難です。マーケティング部門が収集したデータが現場に適切に共有されず、現場の貴重な声がマーケティング戦略に反映されないという課題も依然として存在します。
パーソナライズされた体験の提供:画一的なアプローチからの脱却
現代の旅行者に対応するためには、画一的なサービス提供から脱却し、個々のゲストに合わせたパーソナライズされた体験をデザインする必要があります。これは、単に名前で呼びかける以上の深い意味を持つ戦略です。
ターゲットセグメントの細分化
マスマーケティングではなく、特定の興味や価値観を持つマイクロセグメントに焦点を当てる必要があります。例えば、「サステナブルな旅を求める層」「地元文化への没入を望む層」「デジタルデトックスを求める層」など、多様なニーズに対応するプランを開発することが求められます。このような細分化されたアプローチにより、ゲストは「自分のためのホテル」だと感じ、より強いエンゲージメントが生まれます。
旅行フェーズごとのアプローチ
ゲストの旅のプロセスは、「旅行前」「旅行中」「旅行後」の3つのフェーズに分けられ、それぞれのフェーズで異なるパーソナライゼーション戦略が必要です。
- 旅行前: ゲストの予約履歴やSNSでの活動から興味を推測し、関連性の高い情報や限定オファーを提供します。例えば、特定のイベント情報や、そのゲストが好みそうなアクティビティの提案など、予約前から期待感を高めるコミュニケーションが重要です。
- 旅行中: チェックイン時の会話から得られた情報を基に、滞在中のサービスを調整します。地元の工芸品に興味があるゲストには近くの工房見学を提案したり、静かな環境を好むゲストには眺めの良い静かな部屋を提案したりと、柔軟な対応が求められます。客室内のスマートデバイスを通じて、パーソナライズされた情報提供やサービスリクエストを可能にすることも有効です。
- 旅行後: 滞在中の体験に関するフィードバックを収集し、次回の滞在に向けたパーソナルな提案を行います。感謝のメッセージと共に、ゲストの関心に合わせたニュースレターを送るなども有効であり、長期的な顧客関係を構築します。
現場スタッフのエンパワーメントは不可欠です。ゲストの小さな兆候を捉え、マニュアルにない柔軟な対応ができるよう、権限と情報を提供することで、真のパーソナライゼーションが実現します。これは、「小さな不便」が示すホテル運営の深層:現場力で築く信頼とリピート戦略で述べた「現場力」に通じるものであり、ゲストの期待を超える感動を生み出す源泉となります。
ソーシャルメディアとUGCの活用:信頼と共感を呼ぶマーケティング
Skiftが指摘する「影響力」をマーケティング戦略に組み込むことは、2025年のホテルにとって避けて通れない道です。しかし、単にインフルエンサーを起用するだけでは不十分であり、より本質的なアプローチが求められます。
インフルエンサーマーケティングの質
フォロワー数だけでなく、ホテルのブランドイメージと合致する質の高いコンテンツを生成できるインフルエンサーを選定することが重要です。彼らが本当にその体験を「楽しんでいる」ことが伝わるような、オーセンティック(本物)な発信を促すことで、フォロワーからの信頼と共感を獲得できます。単なる宣伝ではなく、インフルエンサー自身の「アイデンティティ」とホテルの体験が融合するようなストーリーを紡ぐことが鍵となります。
ゲスト生成コンテンツ(UGC)の促進
ゲスト自身がホテルの魅力を発信するUGCは、最も信頼性の高い情報源となります。滞在中に「シェアしたくなる」ようなフォトジェニックなスポットやユニークな体験を意図的にデザインすることが重要です。例えば、美しいラウンジ、趣のある客室の設え、地元の食材を活かした料理の盛り付けなど、視覚的に訴えかける要素を強化します。ハッシュタグキャンペーンや、優れたUGCを公式アカウントで紹介するなどの施策も有効であり、ゲストが積極的に発信したくなるような環境を整えることが求められます。
コミュニティ形成
ホテルは単なる宿泊施設ではなく、共通の興味を持つ人々が集まるコミュニティの場となり得ます。特定のテーマ(例:ウェルネス、アート、美食、ペット同伴旅行)に特化したイベントやワークショップを定期的に開催し、ゲスト間の交流を促すことで、ブランドへの深いロイヤルティを築くことができます。このようなコミュニティは、新たなUGCを生み出すだけでなく、ホテルへのリピート利用や口コミによる新規顧客獲得にも繋がります。
現場スタッフも、ホテルのソーシャルメディア戦略において重要な役割を担います。彼らが日々の業務でゲストと築く信頼関係は、ポジティブなUGCへと繋がり、ブランドの「顔」として機能します。スタッフがホテルの魅力を語る姿や、ゲストとの温かい交流の様子は、見る人に安心感と共感を与え、ホテルの人間味を伝える強力なコンテンツとなるでしょう。
「発見」をデザインする:予期せぬ感動を生む仕掛け
Skiftが指摘する「発見」への欲求に応えるためには、ホテルが「ガイド役」となり、ゲストが自ら探索し、感動を見つけるための仕掛けを意図的にデザインする必要がある。これは、単に情報を提供するだけでなく、ゲストの好奇心を刺激し、記憶に残る体験を創出することを目指します。
ローカル体験との連携
地域コミュニティとの強固な連携は不可欠です。地元の職人、農家、アーティストと協力し、ホテル内でワークショップを開催したり、彼らの作品を展示・販売したりすることで、ゲストは単なる観光客ではなく、その土地の文化に深く触れることができます。例えば、地元の陶芸家によるろくろ体験、伝統工芸品の制作ワークショップ、地元食材を使った料理教室などは、ゲストに「ここでしかできない」特別な発見を提供します。
ホテルは体験創造業へ:地域連携と広告戦略が織りなす新ラグジュアリーで論じたように、地域との連携はホテルの新たな価値創造の源泉となるだけでなく、地域経済の活性化にも貢献します。
隠れた魅力を発掘し、キュレーションする
ホテルスタッフは、地域の「隠れた名所」や「知られざる物語」を熟知し、ゲストの興味に合わせて提案する「キュレーター」としての役割を担う必要があります。マニュアルにない、パーソナルな情報提供が、ゲストに「特別な発見」をもたらします。例えば、早朝の静かな散歩道、地元の人が通う小さなカフェ、歴史的な背景を持つ路地裏など、ガイドブックには載らない情報を共有することで、ゲストはより深くその土地と繋がりを感じることができます。
デジタルツールの活用
ホテル専用のアプリやインタラクティブなデジタルマップは、ゲストが自由に探索し、「発見」をサポートする強力なツールとなります。アプリを通じて、周辺の隠れたスポット情報、イベントカレンダー、おすすめの散策ルートなどを提供し、ゲストが能動的に旅をデザインできる環境を整えます。AR(拡張現実)やVR(仮想現実)を活用して、歴史的建造物の背景を深く知る体験や、未来のイベントを仮想体験できるコンテンツを提供するホテルも現れており、デジタル技術が「発見」の可能性を広げています。
サプライズとデライトの演出
ゲストの期待を超える「サプライズ」や「デライト」は、「発見」の喜びを最大化します。誕生日や記念日のゲストへの心温まるメッセージ、予期せぬアップグレード、あるいは地元の特産品を部屋に用意するなど、マニュアルを超えた人間的なおもてなしが、忘れられない記憶を創出します。これは、「まさかの展開」を「さすがの対応」に:ゲストの日常に寄り添うホテルホスピタリティにも通じるもので、ゲストの感情に深く訴えかけることで、単なる宿泊以上の価値を提供します。
未来への展望:テクノロジーと人間力の融合が鍵
2025年のホテルマーケティングは、テクノロジーの進化なしには語れません。しかし、最終的にゲストの心を動かすのは「人間力」であるという本質は変わりません。この二つの要素をいかに高度に融合させるかが、今後のホテルの競争力を左右するでしょう。
AIの役割の変化
AIは、膨大なデータを分析し、ゲストの行動パターンを予測する強力なツールとして、マーケティング戦略の精度を飛躍的に高めます。ゲストの過去の行動履歴、SNSでの発言、オンラインでの検索傾向などをAIが解析することで、個々のゲストに最適化された情報やサービスを提案することが可能になります。しかし、AIはあくまで「コパイロット」であり、最終的な判断や、ゲストの感情に寄り添う繊細なおもてなしは、人間のホテリエに委ねられます。AIがルーティン業務やデータ処理を効率化することで、ホテリエはより創造的で、共感的な役割に集中できるようになるでしょう。これは、AIが拓くホテリエの未来:人間力とテクノロジーで進化するキャリアで詳しく考察されているように、ホテリエの仕事の質を高めることに繋がります。
ホテリエのスキルセットの変化
未来のホテリエには、データリテラシーと共感力の両方が求められます。テクノロジーを理解し、その恩恵を最大限に活用しつつ、ゲスト一人ひとりの感情や背景を深く理解し、パーソナルな体験をデザインする能力が不可欠となります。例えば、AIが提示したゲストの嗜好データをもとに、どのような言葉で、どのようなタイミングで、どのような提案をするかといった、人間ならではの機微を捉えたコミュニケーションスキルがより重要になります。テクノロジーが進化すればするほど、人間だからこそ提供できる「温かみ」や「心の繋がり」の価値が高まるのです。
持続可能な観光とエシカルなマーケティング
現代の旅行者は、環境や社会への配慮を重視する傾向が非常に強いです。ホテルは、持続可能な運営(CO2排出量削減、フードロス対策、地域経済への貢献など)を積極的にアピールし、エシカルなマーケティングを展開することで、ゲストからの信頼と共感を獲得できます。これは、単なるトレンドではなく、企業の社会的責任として不可欠な要素となっています。例えば、地元産の食材を積極的に使用し、その生産者のストーリーをゲストに伝えることや、客室のアメニティを環境に配慮したものに切り替えることなどが挙げられます。このような取り組みは、ゲストの「アイデンティティ」と共鳴し、深いブランドロイヤルティを築くことに繋がるでしょう。
まとめ
2025年、ホテル業界におけるマーケティングは、単なるプロモーション活動から、ゲストの深い欲求に応え、忘れられない「体験」をデザインする芸術へと進化しています。Skiftの研究が示す「アイデンティティ、影響力、発見」という3つのキーワードは、この新たな潮流を理解し、戦略を構築するための羅針盤となるでしょう。
データとAIが客観的な情報と効率性をもたらす一方で、ゲストの心に響くパーソナルな感動は、やはり人間のホテリエが持つ「共感力」と「現場力」によって生み出されます。テクノロジーを最大限に活用しつつ、人間中心のホスピタリティを追求すること。これこそが、多様化する現代の旅行者の期待を超え、持続可能な成長を遂げるためのホテルの未来戦略であると言えるでしょう。
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