はじめに
2025年、ホテル業界はかつてないほどの変化の波に直面しています。国際的な旅行需要の回復、多様化する顧客ニーズ、そして慢性的な人手不足といった課題が山積する中で、ホテルは単なる「宿泊施設」という枠を超え、新たな価値創造の役割を求められています。特に、訪日外国人観光客（インバウンド）の増加は、ホテルに地域の魅力を発信し、経済活性化に貢献する「地域ハブ」としての機能が期待されるようになりました。
このような状況下で、テクノロジーはホテルのビジネスモデルと顧客体験を根本から変革する重要な鍵となっています。本稿では、数あるテクノロジーの中でも、特に「独自決済サービス」に焦点を当て、それがどのように訪日客の利便性を向上させ、ひいては地域経済との共創を促進するのかを深掘りしていきます。
ホテルが提供する「独自決済サービス」の台頭
従来のホテルにおける決済手段は、現金、クレジットカード、そして近年ではQRコード決済が主流でした。しかし、これらの方法にはそれぞれ課題が存在します。例えば、訪日客にとっては、外貨両替の手間、自国で使い慣れた決済手段が利用できない、あるいは少額決済のたびに財布を取り出す煩雑さなどが挙げられます。ホテル側から見ても、決済手数料、精算業務の負荷、顧客の消費行動データの収集の難しさといった課題がありました。
こうした課題を解決し、顧客体験と運営効率の両方を向上させる手段として、ホテルが独自に展開する決済サービスが注目を集めています。これは、ホテルが自社のブランドと顧客基盤を活用し、よりシームレスでパーソナライズされた決済体験を提供するものです。
直近のニュースでも、この動きを象徴する事例が報じられました。株式会社アマネクが2025年7月より運用を開始した独自決済サービス「HEYAZUKE（ヘヤヅケ）」です。
ホテルのカードキーで街を回遊する独自決済サービス 訪日客の利便性向上へ
https://honichi.com/news/2025/08/27/heyazuke
ホテルの開発・運営などを手がける株式会社アマネクは2025年7月より、同社が運営するホテル「アマネク新宿歌舞伎町」にて、独自開発の決済サービス「HEYAZUKE（ヘヤヅケ）」の運用を開始しました。
この「HEYAZUKE」は、ホテルのカードキーに決済機能を付帯させることで、宿泊客、特に訪日客の利便性を飛躍的に向上させるものです。チェックイン時にカードキーを受け取るだけで、ホテル内外の提携店舗での支払いが可能になるというコンセプトは、まさに「手ぶらで観光」を実現する画期的なアプローチと言えるでしょう。
このサービスが訪日客にもたらすメリットは多大です。まず、現金の持ち歩きや両替の手間が不要になります。また、慣れない通貨での計算ミスや、小銭の扱いに困ることもありません。さらに、クレジットカード情報の入力やQRコード決済アプリの起動といった煩わしさから解放され、よりスムーズに買い物や飲食を楽しむことができます。これは、言語の壁や文化の違いに起因するストレスを軽減し、日本の滞在をより快適なものにする上で極めて重要な要素です。
ホテル側にとっても、この独自決済サービスは単なる利便性向上ツール以上の意味を持ちます。それは、顧客の行動データを直接収集し、新たなビジネスチャンスを創出する基盤となるからです。
「HEYAZUKE」が示す新しいビジネスモデル：ホテルと地域経済の共創
「HEYAZUKE」のような独自決済サービスは、ホテルのビジネスモデルに新たな可能性をもたらします。それは、ホテルが地域経済と深く連携し、共創関係を築くための強力なツールとなることです。
地域経済への貢献と新たな収益源
独自決済サービスは、ホテル内での消費だけでなく、提携する地域店舗での利用を促進します。これにより、宿泊客の消費がホテル周辺の商店街や飲食店、観光施設に直接流れ込み、地域経済の活性化に大きく貢献します。ホテルは、単に宿泊客を誘致するだけでなく、地域全体の消費を喚起する「ゲートウェイ」としての役割を担うことができるのです。
ホテルは、この決済サービスを通じて、提携店舗からの手数料収入を得ることも可能です。これは、従来の宿泊料や館内施設利用料に依存しない、新たなアンシラリー収益源となり得ます。
ホテルは「体験創造業」へ：アンシラリーで拓く収益と顧客ロイヤルティでも述べたように、アンシラリー収益の多角化は、ホテルの収益構造を強化し、持続可能な経営を実現する上で不可欠です。
さらに、地域事業者にとっては、ホテルの集客力と決済システムを活用することで、新たな顧客層を獲得し、売上を伸ばすチャンスとなります。ホテルと地域事業者がWin-Winの関係を築くことで、地域全体としての観光魅力度向上にも繋がります。
データ活用によるパーソナライズと顧客体験の向上
独自決済サービスは、顧客の消費行動に関する貴重なデータをホテルに提供します。どの宿泊客が、いつ、どこで、何を、いくら使ったのかという詳細なデータは、顧客理解を深める上で極めて有用です。
このデータを分析することで、ホテルは顧客一人ひとりの嗜好や行動パターンを把握し、よりパーソナライズされたサービスやプロモーションを提供できるようになります。例えば、特定の地域の飲食店を頻繁に利用するゲストには、その地域の他の魅力的なスポットやイベント情報をレコメンドしたり、特定のジャンルの商品を購入する傾向のあるゲストには、関連する地域の店舗のクーポンを配信したりすることが可能です。
これは、AIとデータで変革するホテル業界：超パーソナライズが描く未来のおもてなしで提唱した「超パーソナライズ」を具現化する一歩となります。顧客は自分に合った情報やサービスを受け取ることで、より満足度の高い滞在を体験でき、ホテルへのロイヤルティも向上するでしょう。このロイヤルティ向上は、ホテル経営の新たな羅針盤：LTV最大化を実現する戦略とテクノロジーで論じた顧客のLTV（Life Time Value）最大化にも直結します。
また、訪日客にとって、言語や文化の壁がある中で、自分に合った情報が自動的に提供されることは、非常に大きな安心感と利便性をもたらします。これは、2025年インバウンド新時代：ホテルが目指す「体験創造」と「多文化共生」で強調した「多文化共生」の実現にも寄与するでしょう。
独自決済サービスの技術的側面と導入の課題
独自決済サービスの導入は、ホテルと地域経済に多大なメリットをもたらす一方で、技術的、法的、そしてパートナーシップ構築の面で様々な課題を伴います。
技術要件とインフラ整備
安全で信頼性の高い独自決済サービスを構築するためには、堅牢な技術基盤が不可欠です。
- セキュアな決済システム: 顧客の個人情報や決済情報を保護するため、高度な暗号化技術やトークン化技術が必須です。不正アクセスやデータ漏洩のリスクを最小限に抑えるためのセキュリティ対策は、最優先事項となります。
- ホテルPMS（Property Management System）との連携: 決済情報と宿泊情報をシームレスに連携させることで、チェックイン時のチャージ、チェックアウト時の精算、利用履歴の管理などを効率化できます。既存のPMSとのAPI連携やシステム改修が必要となる場合があります。
- 地域店舗側のPOSシステムとの連携: ホテルだけでなく、提携する地域店舗でも決済サービスを利用できるようにするためには、各店舗のPOSシステムとの連携が不可欠です。NFC（近距離無線通信）やQRコードリーダーなどのハードウェア導入、ソフトウェアの改修、そして店舗スタッフへの操作研修も必要となります。
- NFC/RFID技術の活用: 「HEYAZUKE」のようにカードキーに決済機能を組み込む場合、NFCやRFIDといった非接触型通信技術が用いられます。これらの技術は、高速かつ安全な決済を可能にしますが、対応するリーダーの設置やカードキーの製造コストも考慮に入れる必要があります。
法規制とセキュリティ
決済サービスを提供する上で、法規制への準拠は極めて重要です。
- 資金決済法: 日本国内で決済サービスを提供する事業者は、資金決済法に基づき、前払式支払手段発行者や資金移動業者としての登録が必要となる場合があります。サービスの形態や規模によって適用される法律が異なるため、専門家による厳密な法的審査が不可欠です。
- 個人情報保護法: 顧客の決済データや利用履歴は個人情報に該当するため、個人情報保護法に基づき、適切な取得、利用、管理、そして第三者提供に関する同意取得が求められます。
- サイバーセキュリティ対策: 大量の個人情報や決済情報を扱うため、サイバー攻撃に対する強固な防御体制を構築しなければなりません。定期的な脆弱性診断、従業員へのセキュリティ教育、インシデント発生時の対応計画策定などが不可欠です。信頼の失墜は、ホテルのブランド価値を著しく損なうため、セキュリティへの投資は惜しむべきではありません。
パートナーシップ構築の難しさ
独自決済サービスの成功は、いかに多くの地域店舗を巻き込み、強固なパートナーシップを築けるかにかかっています。
- 地域店舗の理解と協力体制の構築: 新しい決済システムの導入には、店舗側の初期投資（リーダー設置など）、システム操作の習得、手数料負担などが発生します。ホテル側は、これらの負担を上回るメリット（新規顧客獲得、売上向上など）を明確に提示し、地域店舗の理解と協力を得るための丁寧な説明とサポートが不可欠です。
- 手数料体系、精算サイクルの調整: ホテルと地域店舗、そして場合によっては決済代行会社との間で、公平かつ持続可能な手数料体系と精算サイクルを構築する必要があります。特に中小規模の店舗にとっては、キャッシュフローへの影響が大きいため、柔軟な対応が求められることもあります。
これらの課題をクリアするためには、ホテルは単なるサービス提供者としてではなく、地域全体の活性化を牽引するリーダーとしての視点を持つことが重要です。
未来のホテル像：決済サービスが拓く「スマート・ツーリズム」
独自決済サービスは、2025年以降のホテル業界において、単なる支払い手段の進化に留まらず、より広範な「スマート・ツーリズム」の実現に向けた重要なピースとなるでしょう。
地域全体を巻き込むエコシステム
ホテルが提供する独自決済サービスは、将来的には地域全体を巻き込むエコシステムの中心となり得ます。宿泊客はホテルのカードキー一つで、交通機関（バス、電車、レンタサイクル）、観光施設（美術館、テーマパーク）、飲食店、小売店など、地域内のあらゆるサービスを利用できるようになるかもしれません。これは、一種の「地域通貨」のような役割を果たし、地域内の消費を促進するだけでなく、観光客の回遊性を高め、特定のエリアへの集中を緩和する効果も期待できます。
ホテルは、このエコシステムの司令塔として、地域内の様々な事業者と連携し、新たな観光体験やサービスを企画・提供できるようになります。例えば、特定のテーマに沿った「周遊パス」を決済サービスに組み込み、地域内の隠れた名所を巡るツアーを提案するといったことも可能になるでしょう。
訪日客以外の顧客層への展開とロイヤルティプログラムとの統合
独自決済サービスのメリットは、訪日客に限定されるものではありません。国内の観光客やビジネス客にとっても、手ぶらでスムーズに決済できる利便性は大きな魅力です。特に、ホテルを頻繁に利用するリピーターや、長期滞在のビジネス客にとっては、決済の手間が省けるだけでなく、利用履歴に応じたパーソナライズされたサービスを受けられることは、ホテルへのロイヤルティを一層高める要因となります。
将来的には、この独自決済サービスをホテルのロイヤルティプログラムと完全に統合することも考えられます。決済額に応じてポイントが付与されたり、特定の提携店舗での利用でVIP特典が受けられたりすることで、顧客はより積極的にサービスを利用するようになり、ホテルは顧客データのさらなる蓄積と、顧客エンゲージメントの強化を図ることができます。
アンシラリー収益の最大化と新たなビジネスモデルの創出
独自決済サービスは、前述した決済手数料だけでなく、様々な形でホテルのアンシラリー収益を最大化する可能性を秘めています。
- データ販売・分析サービス: 匿名化された顧客の消費行動データを地域事業者や観光協会に提供することで、新たなマーケティング戦略の立案や商品開発に貢献し、その対価として収益を得ることも考えられます。
- 広告収益: 決済アプリやカードキーの画面に、提携店舗の広告を表示したり、パーソナライズされたプロモーションを配信したりすることで、広告収益を得ることも可能です。
- 金融サービスへの展開: 将来的には、ホテルが独自のプリペイドカードや少額融資サービスなどを提供し、金融事業へと展開する可能性もゼロではありません。
このように、独自決済サービスは、ホテルのビジネスモデルを多角化し、競争激化する市場において新たな差別化要因を創出する強力なツールとなり得るのです。
結論
2025年、ホテル業界は大きな転換期を迎えています。この変化の波を乗りこなし、持続的な成長を遂げるためには、テクノロジーを活用した革新的なアプローチが不可欠です。本稿で深掘りした独自決済サービスは、単なる支払い方法の多様化に留まらず、訪日客の利便性を飛躍的に向上させ、地域経済との共創を促進する戦略的なツールとしての可能性を秘めています。
「HEYAZUKE」のような取り組みは、ホテルが単なる宿泊施設から、地域全体の魅力を引き出し、観光客と地域住民、そして地域経済を結びつける「ライフスタイルハブ」へと進化する上で重要な一歩を示しています。この変革の過程では、技術的な課題、法規制への対応、そして何よりも地域事業者との信頼関係構築が求められます。
しかし、これらの課題を乗り越え、テクノロジーとホスピタリティを融合させることで、ホテルは2025年以降の観光産業において、より中心的で価値ある存在となるでしょう。ホテルは、これからも顧客に最高の体験を提供し続けるために、常に進化を止めないことが求められています。
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