はじめに:宿泊売上への依存からの脱却
ホテルビジネスの収益の柱が「宿泊」であることは言うまでもありません。しかし、OTA(Online Travel Agent)への手数料支払いの増加、市場競争の激化、そして顧客ニーズの多様化といった要因により、宿泊売上だけに依存する経営モデルは限界を迎えつつあります。そこで重要性を増しているのが、宿泊以外の付帯サービスによる収益、すなわち「アップセル」と「クロスセル」です。
アップセルは、顧客が予約したものよりも高価格帯の商品(例:スタンダードルームからスイートルームへのアップグレード)を提案すること。一方、クロスセルは、予約した商品に関連する別の商品(例:宿泊に加えてレストランのディナーやスパトリートメント)を提案することを指します。これらは単なる「追加販売」ではなく、顧客一人ひとりの滞在をより豊かで満足度の高いものへと昇華させるための「価値提案」に他なりません。本記事では、テクノロジーを活用してこのアップセル・クロスセルを体系的に成功させるための戦略について深掘りします。
なぜ今、アップセル・クロスセルが重要なのか?
ホテルがアップセル・クロスセル戦略に注力すべき理由は、単に売上を増やすためだけではありません。大きく3つの理由が挙げられます。
1. 収益性の向上
最も直接的な理由です。顧客単価(ARPU – Average Revenue Per User)が向上することで、ホテル全体の収益性が高まります。特に、OTA経由の予約で失われる手数料を、付帯サービスの売上で補填する効果も期待できます。既存顧客への販売は、新規顧客獲得に比べてコストが格段に低いというマーケティングの原則も、この戦略の有効性を裏付けています。
2. 顧客満足度とロイヤルティの向上
「押し売り」と「気の利いた提案」は紙一重ですが、後者を実践できれば顧客満足度は大きく向上します。例えば、記念日で宿泊する顧客に、事前に特別なディナープランを提案したり、小さな子供連れの家族にベビーベッドの無料提供と併せてキッズメニューを案内したりすることは、顧客にとって「自分のことを理解してくれている」というポジティブな体験につながります。こうした体験の積み重ねが、再訪や好意的な口コミを促し、長期的なロイヤルティを醸成します。
3. 顧客データの有効活用
アップセルやクロスセルの試みは、顧客をより深く知る絶好の機会です。どのような提案に顧客が興味を示したか、あるいは示さなかったかというデータは、非常に価値のある情報です。このデータを蓄積・分析することで、よりパーソナライズされたマーケティング施策やサービス開発へと繋げることができます。
顧客体験のタイムラインで考える戦略的アプローチ
効果的なアップセル・クロスセルは、顧客の滞在ジャーニーの適切なタイミングで実施することが鍵となります。ここでは、タイムラインに沿って具体的なアプローチと活用すべきテクノロジーを見ていきましょう。
フェーズ1:予約完了後〜チェックイン前
この期間は、顧客の旅行に対する期待感が最も高まっているタイミングであり、提案を受け入れやすい「ゴールデンタイム」です。予約確認メールやリマインドメールに、パーソナライズされたオファーを盛り込みます。
提案内容の例:
・客室のアップグレード(例:「+3,000円で、より眺めの良い高層階のお部屋へ」)
・アーリーチェックイン/レイトチェックアウト
・朝食の追加
・空港送迎サービスの予約
・レストランやスパの事前予約(割引特典付き)
活用テクノロジー:
MA(マーケティングオートメーション)ツールやCRMと連携した予約システムが有効です。顧客の属性(ビジネス/レジャー、カップル/ファミリーなど)や過去の利用履歴に基づき、自動で最適なオファーを送信する仕組みを構築できます。海外ではOakyのようなアップセルに特化したプラットフォームも広く利用されています。
フェーズ2:チェックイン時〜滞在中
ホテルに到着し、滞在を楽しんでいる最中も絶好の機会です。ただし、過度なセールスは顧客体験を損なうため、あくまで自然な形での提案が求められます。
提案内容の例:
・フロントでのご案内(例:「本日はレストランに空きがございますが、特別コースはいかがですか?」)
・客室タブレットやテレビでのデジタル案内(ルームサービス、スパメニュー、館内イベント情報)
・ホテル専用アプリからのプッシュ通知(例:「本日15時〜17時限定、プールサイドバーでハッピーアワー実施中」)
・コンシェルジュからのアクティビティ提案
活用テクノロジー:
PMS(Property Management System)と連携した客室タブレットやデジタルサイネージ、ホテル専用アプリが中心となります。特にアプリは、顧客が自身のスマートフォンで能動的に情報を得られるため、自然な形でクロスセルを促進できます。また、AIチャットボットを活用し、24時間いつでも顧客の質問に答えながら関連サービスを提案することも可能です。
フェーズ3:チェックアウト後
滞在が終わったからといって、関係が終わるわけではありません。良い体験をした顧客は、次のアクションにつながる可能性を秘めています。
提案内容の例:
・サンクスメール内での次回利用可能な割引クーポンの提供
・系列ホテルの紹介
・滞在中に利用したアメニティや、ホテルオリジナル商品のECサイトへの誘導
活用テクノロジー:
CRMやメールマーケティングツールが主役です。滞在中の利用状況(例:レストランを利用した、スパを利用した)に基づいてセグメント分けし、パーソナライズされたメールを送ることで、開封率やクリック率を高めることができます。
成功のための注意点
テクノロジーを導入するだけでアップセル・クロスセルが成功するわけではありません。以下の点に注意する必要があります。
・「押し売り」にならないこと:提案は常に顧客のメリットを第一に考え、選択肢として提示する姿勢が重要です。頻度やタイミングを誤ると、顧客に不快感を与え、逆効果になります。
・魅力的なオファーの造成:提案する商品やサービス自体が魅力的でなければ、誰も購入しません。季節限定のディナーコースや、宿泊者限定の体験プログラムなど、付加価値の高いオファーを企画する努力が不可欠です。
・スタッフの巻き込み:テクノロジーはあくまでツールです。最終的に顧客と接するのは現場のスタッフです。彼らが自信を持って提案できるよう、十分な情報共有とトレーニングを行い、モチベーションを高めるインセンティブ設計などを検討することも有効です。
まとめ
アップセル・クロスセル戦略は、目先の売上増加だけでなく、顧客満足度を高め、長期的なファンを育てるための重要な経営戦略です。顧客体験のタイムラインを意識し、CRMやMAツール、ホテルアプリといったテクノロジーを戦略的に活用することで、属人的な努力に頼るのではなく、組織として体系的かつ効果的に収益機会を最大化することが可能になります。まずは自社の顧客データを見直し、どのタイミングで、どのような「気の利いた提案」ができるか、検討を始めてみてはいかがでしょうか。
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