はじめに:ホテル収益の新たな柱「非宿泊部門」
ホテルビジネスの収益構造と聞くと、多くの人が「客室の稼働率」や「客室単価(ADR)」といった指標を思い浮かべるでしょう。これらは宿泊部門の収益性を測る上で極めて重要なKPIであり、ホテルの経営を支える根幹であることは間違いありません。しかし、新型コロナウイルスのパンデミックを経て、宿泊需要が急激に蒸発するという未曾有の事態を経験した私たちは、宿泊収益一本足打法のリスクを痛感させられました。
このような背景から、今、ホテル業界で急速に注目を集めているのが「非宿泊部門(Ancillary Revenue)」の強化です。非宿泊部門とは、その名の通り、宿泊以外のすべてから得られる収益を指します。具体的には、レストランやバーといった飲食(F&B)、スパやフィットネスジム、宴会・会議(MICE)、さらには駐車場、アクティビティ販売などが含まれます。
本記事では、なぜ今、非宿泊部門の収益化が重要視されているのかを解き明かし、具体的な戦略と、その成功を後押しするデジタルトランスフォーメーション(DX)の可能性について深掘りしていきます。「泊まる場所」から「多彩な体験を提供する場所」へと進化する、次世代のホテルビジネスの姿を探ります。
なぜ今、非宿泊部門の収益化が重要なのか?
非宿泊部門の強化は、単なる「減収分の穴埋め」という消極的な理由だけではありません。むしろ、ホテルのビジネスモデルそのものをより強靭で魅力的なものへと変革する、積極的な戦略として捉えるべきです。その主な理由を4つの側面に分けて解説します。
1. 収益の安定化と多角化
最大の理由は、収益源の多角化による経営の安定です。宿泊収益は、観光シーズンの繁閑、景気動向、そして感染症の流行といった外部要因の影響を非常に受けやすい性質があります。一方で、例えば地域住民をターゲットにしたレストランやフィットネスジムの会員制サービスは、宿泊需要とは異なるサイクルで安定した収益を生み出す可能性があります。収益の柱を複数持つことで、特定の市場が落ち込んだ際のリスクを分散し、経営のレジリエンス(回復力)を高めることができます。
2. 顧客体験価値(CX)の最大化
現代の旅行者は、単に快適なベッドで眠ることだけをホテルに求めてはいません。「そこでしかできない体験」、すなわち「コト消費」への欲求が高まっています。ホテルが魅力的なレストラン、心身を癒すスパ、地域の文化に触れるアクティビティなどを提供することは、宿泊体験そのものの価値を飛躍的に向上させます。結果として、顧客満足度が高まり、リピート利用や好意的な口コミに繋がり、強力なファンを育成することができます。
3. 新たな顧客層の開拓
非宿泊部門は、これまでホテルのターゲットとなり得なかった新しい顧客層へのアプローチを可能にします。例えば、ホテル内のレストランが「記念日に利用したい特別な場所」として地域住民に認知されれば、宿泊せずともホテルとの接点が生まれます。また、先進的な設備を備えた会議室やコワーキングスペースは、地元の企業やフリーランサーにとって魅力的な選択肢となり得ます。これらの利用者が将来的に宿泊客になる可能性も十分にあり、マーケティングの観点からも非常に有効な戦略です。
4. ブランドイメージの強化と差別化
ユニークで質の高い非宿泊サービスは、ホテルのブランドイメージを際立たせ、競合との明確な差別化要因となります。「あのホテルに行けば、最高の美食体験ができる」「ウェルネスプログラムが充実しているのはあのホテルだ」といった独自の強みは、価格競争から脱却するための強力な武器になります。ホテルが提供する世界観や価値観を非宿泊サービスを通じて表現することで、顧客の心に深く刻まれるブランドを構築できるのです。
ホテルのアセットを活かす、非宿泊部門の収益化戦略アイデア
では、具体的にどのような戦略が考えられるでしょうか。ホテルが持つ「空間」「人材」「立地」といったアセットを最大限に活用するアイデアをいくつかご紹介します。
飲食(F&B)部門の改革
- デスティネーション・レストラン化:「ホテルのレストラン」という枠を超え、そのレストランを目的に遠方からでも人が訪れるような「デスティネーション(目的地)」を目指す戦略です。有名シェフの招聘、地域の希少な食材を使った限定メニュー、SNS映えする空間デザインなどで話題性を創出し、外部のグルメサイトやメディアと連携して集客を図ります。
- ゴーストキッチン/デリバリー拠点化:ホテルの厨房設備を活用し、デリバリー専門のブランドを立ち上げる「ゴーストキッチン」としての運用も有効です。特に都市部のホテルでは、周辺のオフィスや住民へのランチ・ディナー需要を取り込むことができます。
- インルームダイニングのDX:単なるルームサービスではなく、客室のタブレットやゲスト自身のスマートフォンから手軽に注文・決済できるモバイルオーダーシステムを導入。メニューをデジタル化することで、写真や動画を使った魅力的な訴求や、時間帯に合わせたメニュー変更が容易になります。
ウェルネス&レクリエーション施設の外部開放
- 会員制とビジター利用:スパ、フィットネスジム、プールといった施設を、宿泊客だけでなく地域住民にも開放します。月額制のフィットネス会員や、都度払いのビジター利用を設けることで、安定した収益源を確保します。
- 高付加価値プログラムの提供:経験豊富なトレーナーによるパーソナルトレーニング、著名な講師を招いたヨガリトリート、専門家による栄養指導など、専門性の高い有料プログラムを企画・販売します。宿泊と組み合わせたウェルネスパッケージも人気を集めるでしょう。
「スペース」の時間貸しとイベント活用
- フレキシブルなワークスペース提供:パンデミック以降、リモートワークが普及したことで、快適なワークスペースへの需要が高まっています。稼働率の低い平日の宴会場や客室の一部を、高速Wi-Fiや電源を完備したコワーキングスペースやプライベートオフィスとして時間貸し・日貸しするサービスは有望です。法人契約を結ぶことで安定収益にも繋がります。
- 地域コミュニティのハブとなるイベント開催:ロビーやラウンジといったパブリックスペースを活用し、音楽ライブ、アート展示、地元の作家によるマルシェなどを開催。ホテルを地域住民が集うコミュニティのハブと位置づけることで、新たな客層を呼び込み、ブランドへの親近感を醸成します。
非宿泊部門の収益化を加速させるDX/テクノロジー
これらの戦略を成功に導く上で不可欠なのが、テクノロジーの活用、すなわちDXです。勘や経験に頼るだけでなく、データを活用し、効率的なオペレーションを実現するためのツールが鍵となります。
1. 統合管理システムによる顧客情報の一元化
宿泊予約を管理するPMS(Property Management System)と、レストラン、スパ、アクティビティなどの予約システムがバラバラでは、顧客情報を横断的に活用できません。これらのシステムを連携、あるいは統合することで、一人の顧客が「いつ宿泊し、どのレストランで何を注文し、どんなアクティビティに参加したか」というデータを一元管理できます。これにより、顧客の嗜好に合わせた的確なアップセルやクロスセルが可能になります。
2. CRM/MAツールによるパーソナライズド・マーケティング
収集した顧客データを活用し、マーケティングオートメーション(MA)や顧客関係管理(CRM)ツールを駆使することで、顧客一人ひとりに最適化されたアプローチが実現します。例えば、以下のような施策が考えられます。
- 宿泊予約者への事前アプローチ:宿泊予約が完了した顧客に対し、滞在前に「レストランの事前予約で10%オフ」「人気のスパメニューのご案内」といったメールを自動送信し、非宿泊サービスの利用を促す。
- 利用履歴に基づくリピート促進:過去にレストランを利用したことがある近隣住民に対し、新しい季節限定メニューの情報をEメールやLINEで配信する。
- セグメント配信:「家族連れ」「カップル」「ビジネス利用」といった顧客セグメントごとに、興味を持ちそうなアクティビティやプランを提案する。
3. モバイルテクノロジーによるシームレスな体験
ホテル専用のモバイルアプリやWebアプリは、非宿泊サービスの利用体験を飛躍的に向上させます。ゲストは自身のスマートフォンから、いつでもどこでもレストランの席を予約し、スパのメニューを選び、アクティビティの空き状況を確認できます。QRコード決済や事前決済を導入すれば、チェックアウト時の煩雑な手続きも不要になり、シームレスでストレスフリーな体験を提供できます。
まとめ:ホテルは「体験を創造するプラットフォーム」へ
非宿泊部門の収益化は、もはや単なる補助的な収益源ではありません。それは、ホテルのビジネスモデルそのものを再定義し、顧客との関係を深化させ、ブランド価値を高めるための中心的な戦略です。ホテルという物理的な「ハコ」を、多彩な体験を生み出す「プラットフォーム」として捉え直すことが、これからのホテル経営者には求められています。
成功の鍵は、自社のホテルの立地、設備、ブランドイメージといった強みを正確に把握し、ターゲット顧客に響くユニークなサービスを企画すること。そして、そのサービスを顧客に届け、満足度を最大化するために、DXを積極的に推進することです。テクノロジーの力を借りてオペレーションを効率化し、データを活用してマーケティングを最適化することで、非宿泊部門はホテルの未来を支える太い柱へと成長していくでしょう。
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