はじめに:ホテルの価格は「決める」から「予測する」時代へ
ホテルの収益を最大化する上で、客室の「価格設定」は最も重要な要素の一つです。かつては、シーズンや曜日によって固定された価格テーブルを用いるのが一般的でした。しかし、オンライン旅行会社(OTA)の台頭、消費者行動の多様化、そしてテクノロジーの進化により、ホテル業界の価格戦略は大きな変革期を迎えています。その中心にあるのが「ダイナミックプライシング」という考え方です。
ダイナミックプライシングとは、需要と供給の状況に応じて価格をリアルタイムで変動させる戦略のことです。航空券の価格が予約するタイミングによって変動するのは、まさにこのダイナミックプライシングが活用されている身近な例でしょう。ホテル業界においても、この戦略はもはや一部の先進的なホテルだけのものではなく、収益向上を目指す上で不可欠な経営手法となりつつあります。本記事では、このダイナミックプライシングの仕組みを深掘りし、なぜ今重要なのか、そしてAIなどのテクノロジーがどのように価格戦略を変革しているのかを徹底的に解説します。
ダイナミックプライシングの基本的な仕組み
ダイナミックプライシングは、決して「勘」や「経験」だけで行われるものではありません。その根幹には、膨大なデータの分析に基づいた科学的なアプローチが存在します。価格を決定するために考慮されるデータは、大きく「内部データ」と「外部データ」に分けられます。
内部データ:自ホテルの状況を把握する
まずは、自社の状況を正確に把握するためのデータです。これらはホテルが日々蓄積している情報であり、価格戦略の基礎となります。
- 予約状況(On-the-Books):現時点でどれだけの客室が予約されているか、そのペースはどうか。未来の稼働率(OCC)を予測する上で最も重要な指標です。
- リードタイム:宿泊日からどれくらい前に予約が入っているか。リードタイムが短い予約が多いのか、長い予約が多いのかによって、顧客層や需要の特性を分析できます。
- 過去の実績データ:昨年や一昨年の同日、同曜日の稼働率、平均客室単価(ADR)、RevPAR(販売可能な客室1室あたりの収益)など。過去のパターンから今年の需要を予測します。
- キャンセル率:予約された客室がどの程度の確率でキャンセルされるか。これを考慮することで、オーバーブッキングを戦略的に行い、機会損失を防ぐことも可能です。
- 顧客セグメント:予約がビジネス客からか、レジャー客からか。OTA経由か、公式サイト経由か。顧客の属性によって価格感応度は異なるため、セグメントごとの価格設定が求められます。
外部データ:市場全体の動きを捉える
自社のデータだけを見ていては、市場全体の大きなうねりを見逃してしまいます。競合や周辺環境の変化を捉える外部データの分析も同様に重要です。
- 競合ホテルの価格・稼働状況:自ホテルと同じエリアや同等クラスの競合がどのような価格で販売しているか。競合の価格変動に追随するだけでなく、その背景にある戦略を読み解くことが重要です。
- 周辺のイベント情報:コンサート、スポーツの試合、国際会議、展示会、地域の祭りなど、大規模なイベントは宿泊需要を爆発的に増加させる要因です。これらの情報を事前に把握し、価格に反映させる必要があります。
- 航空券や交通機関の価格動向:遠方からの旅行者が多いエリアでは、航空券の価格が需要の先行指標となることがあります。
- 経済指標や為替レート:特にインバウンド需要に依存するホテルにとって、為替の変動は外国人旅行者の旅行意欲や予算に直接影響します。
- オンライン上の評判やレビュー:自ホテルや競合ホテルの口コミ評価も、消費者の選択に影響を与えるため、価格決定の一つの要素となり得ます。
これらの膨大な内部・外部データを人間がリアルタイムで収集・分析し、最適な価格を導き出すのは至難の業です。そこで活躍するのが、テクノロジー、特にAIの力です。
AIが変える価格戦略:レベニューマネジメントシステム(RMS)の進化
ダイナミックプライシングを実践する上で中核となるのが、レベニューマネジメントシステム(RMS)です。そして近年のRMSは、AI(機械学習)を搭載することで、その精度と自動化のレベルを飛躍的に向上させています。
AI搭載RMSは何ができるのか?
従来のRMSが過去のデータパターンに依存していたのに対し、AI搭載RMSはより複雑で多角的な分析を可能にします。
1. 高精度な需要予測:
AIは、前述した多種多様な内部・外部データをすべて取り込み、それらの相関関係を学習します。「特定の曜日に、特定のリードタイムで、特定の競合が価格を上げた場合、自ホテルの予約はどれくらい増えるか」といった、人間では到底把握しきれない複雑なパターンを認識し、極めて精度の高い需要予測を行います。これにより、「需要が高まるから価格を上げる」という単純な判断ではなく、「どの程度上げるのが最も収益を最大化できるか」という最適解を導き出します。
2. 価格の自動推奨・自動更新:
AIは24時間365日、市場の動向を監視し続けます。そして、需要の変化を検知すると、即座に最適な価格を計算し、レベニューマネージャーに推奨します。さらに設定によっては、事前に定めたルールに基づき、各販売チャネルの価格を自動で更新することさえ可能です。これにより、担当者は手動での価格調整作業から解放され、より戦略的な業務に集中できるようになります。
3. レベニューマネージャーの役割の変化:
テクノロジーの進化は、レベニューマネージャーの役割をも変えつつあります。かつては、表計算ソフトを駆使してデータを分析し、価格を手入力することが主な業務でした。しかしAI搭載RMSが普及した現在、レベニューマネージャーは「AIが出した推奨価格の背景を理解し、その妥当性を判断し、最終的な意思決定を下す」という、より高度で戦略的な役割を担うようになっています。AIを単なるツールとして使うのではなく、優秀なアナリストとして「使いこなし」、自ホテルのブランド戦略やマーケティング戦略と連携させていく能力が求められるのです。
参考となるRMSの例としては、「IDeaS」や「Duetto」、「SiteMinder」などが挙げられます。
ダイナミックプライシング導入のメリットと注意点
ダイナミックプライシングは強力な武器ですが、その導入と運用にはメリットだけでなく、注意すべき点も存在します。
メリット
- 収益の最大化:需要の高い日には価格を上げてADRを向上させ、需要の低い日には価格を下げて稼働率を確保することで、RevPARを最大化します。
- 機会損失の防止:需要を正確に予測することで、「安売りしすぎた」「満室で断ったお客様が実はもっと高い価格でも泊まってくれたはずだった」といった機会損失を最小限に抑えます。
- データドリブンな意思決定:勘や経験といった属人的な要素を排し、客観的なデータに基づいた価格設定が可能になります。
注意点・課題
- 価格の公平性と顧客の信頼:価格が頻繁に、かつ大幅に変動すると、顧客は「不当に高い価格で予約させられたのではないか」という不信感を抱く可能性があります。特に、同じ日に予約した顧客間で大きな価格差が生じると、クレームやブランドイメージの低下に繋がりかねません。価格変動のロジックや上限・下限を明確に設定することが重要です。
- ブランドイメージへの影響:価格を下げすぎると、「安いホテル」というブランドイメージが定着してしまうリスクがあります。ラグジュアリーホテルが安易な値下げを行うと、本来ターゲットとすべき顧客層が離れてしまう可能性があります。価格戦略は、常にホテルのブランド戦略と一貫している必要があります。
- システムへの過度な依存:AIは非常に優秀ですが、万能ではありません。予測不可能なパンデミックや自然災害など、過去のデータでは学習しようのない事態も起こり得ます。システムが提示する価格を鵜呑みにするのではなく、市場の「空気感」や定性的な情報も加味して、最終的には人間が判断するという姿勢が不可欠です。
まとめ:未来のホテル経営を支える戦略的価格設定
ダイナミックプライシングは、もはや単なる「価格を動かす技術」ではありません。それは、膨大なデータを収集・分析し、AIという強力な頭脳を借りて、ホテルの収益性を科学的に最大化するための「経営戦略」そのものです。
ホテルDXというと、スマートキーや客室タブレットといった顧客の目に触れる部分に注目が集まりがちですが、その裏側で収益を支えるレベニューマネジメントの進化こそ、ホテル経営の根幹を揺るがす大きな変化と言えるでしょう。これからホテル業界でキャリアを築こうと考えている方にとっても、この分野の知識は大きな武器となります。
テクノロジーを正しく理解し、その力を最大限に引き出しながら、自ホテルのブランド価値を高めていく。この両輪をうまく回すことができたホテルだけが、これからの厳しい競争を勝ち抜いていくことができるのです。
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