はじめに
2025年、オランダのホテル業界は、政府が計画する宿泊施設への付加価値税（VAT）引き上げという新たな逆風に直面しています。これは単なる税率変更以上の意味を持ち、ホテル経営の根幹を揺るがし、ひいてはオランダ観光全体の競争力に深刻な影響を及ぼす可能性を秘めています。一見すると政府の財源確保策に見えるこの動きに対し、業界からは強い懸念の声が上がっており、その背景には、政府の楽観的な予測と現場の厳しい現実との間に大きな乖離があることが指摘されています。
VAT増税の全貌：政府の期待と現実の乖離
オランダ政府は、宿泊施設（ホテル、ホステルなど）に対するVATを現在の9%から21%へと大幅に引き上げる計画を進めています。この措置により、年間約12億ユーロ（約1,900億円）の税収増を見込んでおり、そのうち約9億1,000万ユーロがホテル部門から、残りの3億200万ユーロがその他の宿泊施設から得られると試算しています。政府の論理は、税率を上げることで単純に税収が増えるというものに見えます。
しかし、オランダの金融大手ABN AMROが中央統計局（CBS）のデータを分析した結果、政府のこの予測には大きな誤算があることが明らかになりました。ABN AMROの調査によれば、ホテルの総収入のうち、実際に21%の高いVATが適用されるのはわずか約34.8%に過ぎないというのです。これは、企業顧客（VAT還付を受ける）や、宿泊以外の食事などの付帯サービスが必ずしも高税率の対象とならないためです。つまり、政府が期待するような税収増は現実的ではなく、その見込みは過大評価されている可能性が高いと指摘されています。
このような政府の予測と現実との乖離は、政策立案の過程における業界の特性理解の不足を示唆しており、現場で日々経営に当たるホテリエにとっては、その影響を深刻に受け止める他ありません。
ホテル経営を直撃する三重苦：コスト増、インフレ、そして増税
オランダのホテル業界は、パンデミックからの回復途上にある中で、すでに高騰するエネルギーコスト、賃金上昇、そしてインフレという三重苦に直面しています。このような状況下で、VATのさらなる引き上げは、経営に決定的な打撃を与えかねない重荷となります。ABN AMROのホテル・レジャー担当専門家であるステフ・ドリーセン氏は、「業界はコロナ禍の混乱からようやく回復しつつあるが、今度はさらに大きな圧力を受けることになる」と警鐘を鳴らしています。
具体的な数字を見てもその深刻さは明らかです。オランダのホテルが2022年に上げた利益はわずか5億7,100万ユーロでした。VATが引き上げられた場合、多くのホテルが赤字に転落する可能性があり、その結果、政府が法人税として徴収できるはずだった1億4,700万ユーロの税収が失われると予測されています。これは、政府が目論む税収増とは逆行する結果であり、むしろ国全体の経済に負の影響をもたらすことになります。現場のホテリエからは、「このままでは多くのホテルが倒産に追い込まれる」という悲痛な声も上がっており、経営の持続可能性が問われる事態となっています。
このような状況は、日本国内で宿泊税の増税が議論される際にも見られた、ホテル経営への直接的な利益圧迫と同様の構造を持っています。例えば、過去記事「京都市宿泊税増税の波紋：高価格帯ホテルが挑む「価値再定義」と「泥臭い現場革新」」や「宿泊税が変える北海道観光：ホテル現場の「泥臭い課題」と「持続的価値」」でも指摘した通り、税制変更はホテルの収益構造に大きな影響を与え、その後の経営戦略に根本的な見直しを迫ります。
未来への投資が滞る危機：グリーン化と労働環境改善
VAT増税がもたらす影響は、短期的な収益悪化に留まりません。ドリーセン氏は、「これは政府にとって1億4,700万ユーロの損失を意味し、ホテルはグリーン化へのアップグレードやより良い労働環境への投資に苦しむことになる」と指摘しています。現代のホテル業界において、環境への配慮（サステナビリティ）は、ゲストの選択基準としてますます重要になっています。また、人材不足が深刻化する中で、ホテリエの労働環境改善は、優秀な人材を確保し定着させるための喫緊の課題です。これらの分野への投資は、ホテルの長期的な競争力を維持し、持続可能な経営を実現するために不可欠です。
しかし、VAT増税によって経営が圧迫されれば、ホテルはこれらの戦略的な投資を抑制せざるを得なくなります。これは、単に企業の利益が減るだけでなく、環境目標の達成が遅れたり、ホテリエのモチベーション低下や人材流出を招いたりする可能性があります。結果として、ゲストへのサービス品質低下にも繋がりかねず、ホテル業界全体の魅力が損なわれる恐れがあります。
これは、過去記事「ホテル業界「人」戦略の要諦：総務人事が導く「採用・育成・定着」と「未来のホスピタリティ」」で述べたような、人材戦略の重要性や、「ホテル大規模投資の真意：競争力強化と「未来のゲスト体験」を創る戦略」で強調した、未来への投資の必要性と真っ向から対立する状況と言えるでしょう。
オランダ観光の競争力低下と国の損失
業界団体、労働組合、銀行は、このVAT増税政策を「オランダを観光市場から締め出す方法」だと批判しています。税率が21%に引き上げられれば、オランダの宿泊料金は周辺国と比較して高くなり、国際的な観光客にとって魅力が低下する可能性があります。特に、価格に敏感な層にとっては、より安価な他のヨーロッパ諸国への旅行を選択する動機付けとなりかねません。
観光客数の減少は、ホテル業界だけでなく、飲食業、小売業、交通機関など、観光に関連するあらゆる産業に波及します。これにより、サプライヤーからの税収も失われ、国全体の経済に負の連鎖をもたらすことになります。短期的な税収増を狙った政策が、結果として長期的な経済的損失と観光競争力の低下を招くという、まさに「愚策」となりかねない状況です。
このような状況は、ホテル業界が直面する「利益圧迫」の典型的な例であり、過去記事「2025年ホテル業界の「利益圧迫」：AIが挑む「現場の泥臭い課題」と「人間的価値」」で議論したように、外部環境の変化が経営に与える影響の大きさを改めて浮き彫りにしています。
現場からの声：持続可能な観光への提言
オランダのホテル業界は、このVAT増税に対して強く反対の声を上げています。彼らは、単に税金が上がることに反対しているだけでなく、この政策がもたらす長期的な悪影響、特に持続可能な観光の実現を阻害する可能性を危惧しています。現場のホテリエは、日々ゲストと向き合い、サービス品質の維持・向上に努めています。しかし、経営が圧迫され、投資余力が失われれば、その努力も限界に達します。
ホテル業界が求めるのは、短期的な財源確保に走るのではなく、業界の特性を理解し、長期的な視点に立った政策立案です。持続可能な観光を実現するためには、政府と業界が連携し、税制優遇措置の検討、労働者支援策、グリーン化投資への補助金など、多角的なアプローチで課題に取り組む必要があります。安易な増税は、観光産業全体の活力を削ぎ、結果的に国益を損なうことになりかねません。
まとめ
オランダで計画されている宿泊施設へのVAT増税は、ホテル業界が直面する多岐にわたる課題を象徴する出来事です。政府の楽観的な税収予測と、現場の厳しい経営現実との乖離は、政策立案における重要な示唆を与えます。高騰するコスト、インフレ、そして新たな増税という三重苦は、ホテルの収益性を圧迫し、グリーン化や労働環境改善といった未来への投資を困難にします。結果として、オランダ観光の国際競争力が低下し、国全体にとって長期的な経済的損失をもたらすリスクがあります。
持続可能な観光の発展のためには、政府が業界の声を真摯に聞き入れ、短期的な財源確保だけでなく、長期的な視点に立った、より現実的でバランスの取れた政策を策定することが不可欠です。税制は経済活動の根幹をなすものであり、その変更がもたらす影響は、常に多角的に、そして深く分析されるべきでしょう。
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