はじめに:客室の隅に眠る「声なき声」
「ホテルの客室で、実はあまり使われていない備品は何だと思いますか?」
先日、こんな興味深い問いかけがSNS上で話題となりました。発信源は、大阪の「ホテルリリーフなんば大国町」のスタッフによるもの。Yahoo!ニュースでも取り上げられ、多くの宿泊経験者から「あれは使わない」「いや、私は必ず使う」といった様々な声が寄せられました。
参考記事:ホテルの客室であまり使われない備品は?スタッフの回答に「どれも使う」「私は使わない」体験談が続々(LIMO) – Yahoo!ニュース
記事によれば、シャワーキャップ、ソーイングセット、シューポリッシャー(靴磨き)などが「使われない備品」の上位に挙がったそうです。この話題、単なる「ホテルあるある」で片付けてしまうのはあまりにもったいない。実はこの「使われない備品」という存在は、現代のホテルが抱えるコスト構造、オペレーション、そして顧客体験設計における根深い課題を浮き彫りにしているからです。
「念のため」「あったほうが親切だから」という善意の積み重ねが、いつしかコストを圧迫し、現場の負担を増やし、さらにはサステナビリティに逆行する結果を招いていないでしょうか。本記事では、この「使われない備品」問題を起点に、データに基づいた客室体験の最適化と、これからのホテルが取るべきアメニティ戦略について深掘りしていきます。
なぜ「使われない備品」は客室に置かれ続けるのか?
そもそも、なぜ多くのホテルで同様の備品が画一的に提供され、そして使われないままになっているのでしょうか。その背景には、いくつかの構造的な要因が考えられます。
1. 「あって当たり前」という慣習の力
ホテル業界には、長年にわたって形成されてきた「おもてなしの標準形」とも言うべきものが存在します。歯ブラシ、カミソリ、ヘアブラシ、そして前述のシャワーキャップ…。これらは、いつしか「揃っていて当たり前」のアメニティとなり、多くのホテルが思考停止的に採用し続けてきました。過去の成功体験や業界標準から抜け出せず、「ないとクレームになるかもしれない」という不安が、客室アメニティの「聖域化」を生み出しているのです。
2. 多様化する顧客ニーズの捉え違い
一方で、ゲストの価値観は大きく変化しています。環境意識の高まりから「使い捨て製品は極力使いたくない」と考える層、ミニマリズムの観点から「余計なものは不要」と考える層、あるいは自身のこだわりのアメニティを持参する層など、ニーズはかつてないほど多様化・細分化しています。こうした変化に対し、ホテル側が「最大公約数的な品揃え」で応えようとすることが、結果として多くの「使われない備品」を生み出す原因となっています。
3. 「万が一」を恐れる欠品恐怖症
「お客様から『〇〇はないのか』と聞かれた時に、『ございません』と答えるわけにはいかない」。これは、多くのホテルスタッフが抱えるプレッシャーでしょう。この「欠品への恐怖」が、使用頻度の低い備品でさえも客室に常備させるインセンティブとして働いています。しかし、その「万が一」のために、99%のゲストにとっては不要なコストと資源を投じている可能性はないでしょうか。
「使われない備品」がもたらす、見過ごせない三重苦
客室に眠る使われない備品は、静かにホテルの経営を蝕んでいます。その影響は、大きく分けて「コスト」「オペレーション」「サステナビリティ」の3つの側面に及びます。
1. 静かに経営を圧迫する「コスト」
シャワーキャップ1つの単価は数十円かもしれません。しかし、これが全客室、365日分となれば、その総額は決して無視できない金額になります。購入費用だけでなく、在庫を保管するスペース、管理する人件費、そして最終的に廃棄される際の処理費用まで含めると、見えないコストはさらに膨らみます。利益率の向上が常に求められるホテル経営において、この「静かな出血」を見過ごすことはできません。
2. 現場の疲弊を招く「オペレーション」
客室清掃の現場を想像してみてください。一つでも備品が多ければ、それだけ設置、確認、補充、整頓の手間が増えます。1室あたり数秒の差でも、1日に何十室も担当するスタッフにとっては大きな負担です。限られた時間の中で質の高い清掃を維持するためには、オペレーションの無駄を徹底的に排除する必要があります。「使われない備品」の削減は、次世代の生産性向上に直結する重要なテーマなのです。
3. ブランド価値を損なう「サステナビリティ」への逆行
現代の消費者は、企業の環境に対する姿勢を非常に厳しく見ています。大量のプラスチックごみを生む使い捨てアメニティは、時代遅れと見なされかねません。たとえゲストが使用しなくても、一度客室に設置されたアメニティは衛生上の観点から廃棄されるケースも少なくありません。これは、資源の無駄遣いそのものです。サステナビリティを強みに変えることが求められる今、アメニティ戦略は企業の姿勢を示す試金石となります。
脱・慣習!データで客室体験を再設計するアメニティ戦略
では、この根深い問題をどう解決すればよいのでしょうか。鍵は、慣習や勘に頼るのではなく、データに基づいて意思決定を行う「データドリブン」なアプローチにあります。
ステップ1:現状を「見える化」する
まずは、自社のホテルで「何が」「どれくらい」使われていないのかを正確に把握することから始めます。清掃スタッフが客室チェックの際に、使用済みアメニティを記録する仕組みを作るのが最も直接的です。あるいは、宿泊後のゲストに簡単なデジタルアンケートを実施し、「今回使用しなかったアメニティ」を尋ねるのも有効でしょう。重要なのは、感覚ではなく、定量的なデータを集めることです。これにより、データで「おもてなし」を語るための土台ができます。
ステップ2:新しい提供方法を模索する
データによって不要な備品が特定できたら、次はその提供方法を根本から見直します。画一的な全室設置モデルから脱却し、より柔軟でゲスト本位な選択肢を提示するのです。
- アメニティバー(ビュッフェ)形式の導入
ロビーや各フロアの一角にアメニティコーナーを設け、ゲストが必要なものを必要な分だけ自由に取れるようにする方式です。これは、無駄な廃棄を劇的に削減できると同時に、ゲストに「選ぶ楽しみ」を提供できます。品揃えを工夫すれば、ホテルの個性を表現する場にもなり得ます。 - 予約時の事前選択制
自社予約サイトやアプリ上で、宿泊予約時に必要なアメニティを事前に選択してもらうシステムです。ホテル側はゲストのニーズを正確に把握でき、客室準備の効率も上がります。究極のパーソナライゼーションとオペレーション最適化を両立するモデルと言えるでしょう。 - 「レス・アメニティ」プランの造成
環境意識の高いゲスト向けに、アメニティを最小限に抑える代わりに宿泊料金を割引するプランを提供するのも一つの手です。「何もないこと」を価値として提供し、新たな顧客層にアピールできます。
ステップ3:「減らす」から「磨く」への転換
アメニティ戦略の見直しは、単なるコストカットではありません。むしろ、削減によって生まれたリソースを「本当に価値のあるもの」に再投資するチャンスです。
品数を絞る代わりに、一つひとつの質を徹底的に高める。例えば、地域の素材を活かしたオリジナルのバスアメニティや、有名ブランドとのコラボレーションアイテム、上質なオーガニックコットンを使ったタオルなど、「これがあるから泊まりたい」と思わせるような、記憶に残る備品を提供するのです。これは、ゲストのマイクロエクスペリエンスを向上させ、価格競争から脱却するための強力な武器となります。
まとめ:「当たり前」を疑う勇気が、未来のホテルを創る
客室の片隅に置かれたシャワーキャップ。それは、ホテル業界が長年抱えてきた慣習と、変化する顧客ニーズとのギャップを象徴する存在です。「使われない備品」問題への取り組みは、コスト削減や業務効率化といった直接的なメリットだけでなく、サステナブルなホテル運営へのシフト、そして何よりもゲスト一人ひとりに寄り添った真のパーソナライズ体験の実現へと繋がっています。
今、あなたのホテルの客室にある備品を一つひとつ見つめ直してみてください。それは本当に、今の時代のゲストが求めているものでしょうか。その「当たり前」を疑う小さな一歩が、競合との大きな差別化を生み、未来の顧客から選ばれる理由を創り出すのです。
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