はじめに:なぜ、あのホテルは高くても選ばれるのか?
オンライン・トラベル・エージェント(OTA)の台頭により、宿泊客は指先一つで世界中のホテルの価格を比較できるようになりました。その結果、多くのホテルが熾烈な価格競争の渦に巻き込まれています。「1円でも安く」というプレッシャーは、収益性を圧迫し、サービスの質を低下させ、従業員の疲弊を招く負のスパイラルを生み出しかねません。しかし、目を転じれば、高価格帯を維持しながらも、常に予約で埋まり、熱狂的なファンに支持され続けるホテルブランドが存在します。彼らは、なぜ価格競争の埒外にいることができるのでしょうか。その答えの鍵を握るのが、企業の無形資産である「ブランドエクイティ」です。
本記事では、単なる価格競争から脱却し、持続的な成長を遂げるために不可欠な「ブランドエクイティ」という概念を深掘りします。ホテルが自社のブランド価値を高め、顧客から「価格」ではなく「価値」で選ばれる存在になるための戦略的アプローチについて、具体的なステップとともに解説していきます。
ブランドエクイティとは何か?ホテルの「無形資産」を理解する
ブランドエクイティとは、著名な経営学者デービッド・アーカー氏が提唱した概念で、「ブランドが持つ資産価値」と定義されます。それは、財務諸表には直接現れないものの、企業の収益性や競争力に絶大な影響を与える無形の資産です。アーカー氏は、ブランドエクイティを構成する要素として、主に以下の4つを挙げています。
1. ブランド認知(Brand Awareness)
特定のカテゴリーにおいて、自社のブランド名がどれだけ多くの人々に知られているか、そして最初に想起されるか(純粋想起、第一想起)という指標です。ホテル業界で言えば、「京都で贅沢な時間を過ごすなら、あの旅館」「出張で安心できるのは、あのビジネスホテル」といったように、顧客のニーズとブランドが強く結びついている状態を指します。高いブランド認知度は、顧客がホテルを選ぶ際の検討リスト(考慮集合)に入るための第一関門となります。
2. 知覚品質(Perceived Quality)
顧客がそのブランドに対して抱く「品質の高さ」に関する主観的な評価です。これは、客室の清潔さや設備の豪華さといった物理的な品質だけでなく、スタッフの接客レベル、食事の美味しさ、予約プロセスのスムーズさなど、総合的な体験から形成されます。例えば、「あのホテルチェーンなら、どの施設に泊まっても一定水準以上のサービスが受けられる」という信頼感は、強力な知覚品質の証です。
3. ブランド連想(Brand Association)
顧客がブランド名を聞いたときに思い浮かべる、あらゆるイメージや感情のことです。「ラグジュアリー」「ミニマル」「ファミリーフレンドリー」「クリエイティブ」など、ブランドがどのような独自のイメージと結びついているかが重要になります。このブランド連想がユニークで好ましいものであるほど、他社との強力な差別化要因となり、顧客の心に深く刻まれます。
4. ブランドロイヤルティ(Brand Loyalty)
顧客が特定のブランドを繰り返し選択し続ける度合い、すなわち「忠誠心」です。ブランドロイヤルティの高い顧客は、多少価格が高くても、あるいは他に魅力的な選択肢があっても、そのブランドを選び続けます。彼らは安定した収益源となるだけでなく、好意的な口コミを通じて新たな顧客を呼び込む強力な推奨者(アンバサダー)にもなってくれるのです。
これらの4つの要素が相互に作用し、積み重なることで、ホテルのブランドエクイティは構築されていきます。それは一夜にして築けるものではなく、長期的な視点に立った地道な努力の結晶なのです。
ホテルにおけるブランドエクイティ構築の4ステップ
では、具体的にどのようにブランドエクイティを構築していけばよいのでしょうか。ここでは、4つのステップに分けて解説します。
Step 1: ブランド・アイデンティティの確立(我々は何者か)
すべての始まりは、「我々は何者であり、顧客にどのような価値を提供するのか」という根本的な問いに答えることから始まります。これがブランド・アイデンティティです。ターゲット顧客は誰か、競合との違いは何か、自社の核となる価値観は何かを徹底的に突き詰め、明確な言葉で定義する必要があります。星野リゾートが「星のや(圧倒的非日常感)」「界(温泉旅館)」「リゾナーレ(西洋型リゾート)」といったように、ターゲットやコンセプトに応じてブランドを明確に使い分けているのは、その好例です。このアイデンティティが、以降のすべての活動の羅針盤となります。
Step 2: 一貫したブランド体験の提供(約束をどう守るか)
確立したブランド・アイデンティティを、顧客が体験するすべての接点(タッチポイント)で具現化していくステップです。Webサイトのデザインやコピーライティング、予約からチェックインまでのプロセス、スタッフの言葉遣いや立ち居振る舞い、客室のデザインやアメニティの選定、館内に流れる音楽や香り、提供される食事の一皿に至るまで、すべてに一貫性を持たせなければなりません。ゲストが体験するマイクロエクスペリエンスの積み重ねが、「このホテルは、こういう場所だ」という強固なブランドイメージを顧客の心に形成します。そのためには、従業員一人ひとりがブランドの体現者であるという意識を持つことが不可欠であり、従業員エクスペリエンス(EX)の向上が顧客エクスペリエンス(CX)の質を左右します。
Step 3: ブランド・コミュニケーションの実行(どう伝えるか)
ブランドが提供する価値を、ターゲット顧客に効果的に伝えていくステップです。ここで重要なのは、単に「客室が広い」「駅から近い」といった機能的価値を訴求するだけでなく、「ここでしか味わえない感動」「日常を忘れられる癒やし」といった情緒的価値を伝えることです。ブランドの背景にある哲学や創業者の想い、地域との関わりなどを語るストーリーテリング戦略は、顧客の共感を呼び、記憶に残りやすい強力な手法です。公式ウェブサイトやSNS、ブログ、プレスリリースなど、あらゆるチャネルを通じて、一貫した世界観とメッセージを発信し続けることが、ブランド認知と好ましいブランド連想を育んでいきます。
Step 4: ブランド・ロイヤルティの醸成(どう繋ぎ止めるか)
一度訪れた顧客との関係を維持し、再訪を促し、最終的には熱心なファンへと育てていくステップです。ここでは、CRM(顧客関係管理)システムを活用して顧客データを分析し、パーソナライズされたコミュニケーションを行うことが有効です。誕生日のお祝いメッセージや、過去の利用履歴に基づいた特別なプランの提案などは、顧客に「大切にされている」という感覚を与えます。また、ポイント還元や割引といった金銭的インセンティブだけでなく、会員限定のイベントや先行予約、特別な体験の提供など、ブランドの世界観をより深く楽しめる非金銭的な特典を用意することが、真のロイヤルティを醸成する上で重要になります。
ブランドエクイティがもたらす経営上の恩恵
強固なブランドエクイティを築くことは、ホテル経営に計り知れない恩恵をもたらします。
- 価格プレミアムの獲得:ブランド力があれば、競合よりも高い価格設定でも顧客に選ばれ、高い収益性を実現できます。
- 安定した収益基盤:ロイヤルカスタマーは景気変動や競合の価格戦略に左右されにくいため、経営の安定に大きく貢献します。
- マーケティングコストの削減:満足度の高い顧客による好意的な口コミやSNSでの発信(アーンドメディア)が増えることで、多額の広告費を投じなくても新規顧客を獲得しやすくなります。
- 採用競争力の強化:魅力的なブランドは「ここで働きたい」という求職者からの憧れを集め、優秀な人材の確保につながります。
- 事業展開の優位性:確立されたブランドの信頼を背景に、新たなホテルを開業したり、レストランやスパ、物販などの付帯事業を展開したりする際に、成功の確率が高まります。
まとめ:ホテル経営は「ブランド体験」を売るビジネスへ
2025年以降のホテル業界において、競争の主戦場はもはや価格ではありません。顧客は単に「泊まる場所」を求めているのではなく、そこでしか得られない「特別な体験」や「心に残る時間」を求めています。その期待に応え、顧客の心に深く根ざすブランドをいかにして築き上げるか。その答えが、ブランドエクイティの構築にあります。
目先の売上や稼働率を追うだけの短期的な視点から脱却し、自社の「らしさ」とは何かを定義し、それを一貫した体験として提供し続けること。そして、顧客との長期的な関係性を育んでいくこと。この地道で本質的な取り組みこそが、ホテルという無形の資産価値を最大化し、変化の激しい時代を勝ち抜くための最も確かな戦略と言えるでしょう。
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