はじめに
2025年、ホテル業界はかつてない変革期を迎えています。単に宿泊施設を提供するだけでなく、ゲストにどのような「体験」を提供できるかが、ホテルの競争力を大きく左右する時代となりました。特に、EHL(ローザンヌ・ホテルスクール)が発表した「Hospitality Outlook Report 2026」は、この新しい潮流を明確に示唆しています。同レポートでは、ホスピタリティ業界が「受動的な楽しみ」から「能動的な共創」へと焦点を移し、深い感情的なつながりを生み出す「没入型体験(Immersive Experience)」の重要性を強調しています。
本稿では、このレポートが提示する未来のホスピタリティ、特に「没入型体験」と「ゲスト体験の共創」という二つの概念に深く焦点を当て、それが現場のホテル運営にどのような影響を与え、いかに新たな価値を創造しうるのかを詳細に分析していきます。
参照元:EHL Insights Hospitality Outlook Report 2026 – Hospitality Net
「没入型体験」が拓く新たなホスピタリティの地平
EHLのレポートが示す「没入型体験」とは、ゲストが単にサービスを享受するだけでなく、その空間や提供されるコンテンツに深く感情的に関与し、日常からの解放と忘れがたい記憶を得ることを指します。これは、従来の「快適な滞在」や「高品質なサービス」といった価値提供の枠を超え、ゲストの五感を刺激し、物語性を持たせた体験を創出することに主眼を置いています。
例えば、あるホテルでは地元の文化や歴史をテーマにしたアートインスタレーションを館内全体に展開し、ゲストがまるで美術館を巡るかのように滞在を楽しめるようにしています。また別のホテルでは、地域の食材を使った料理教室や、専属ガイドによる秘境ツアーなど、その土地ならではの「こと」体験を企画。これらの体験は、単なるアクティビティではなく、ゲストがその土地の文化や人々と深く交流し、自分自身の物語の一部として持ち帰れるような設計がされています。これは、消費者が「モノ」から「コト」へと価値の軸を移している現代において、ホテルが提供すべき新たな価値の方向性を示していると言えるでしょう。
現場の視点から見ると、このような没入型体験の提供は、スタッフの役割にも大きな変化を促します。単にゲストの要望に応えるだけでなく、体験の「語り部」となり、ゲストの感情を引き出し、共感を呼ぶコミュニケーションが求められます。あるホテルでは、地元の歴史に精通したスタッフを「カルチャーコンシェルジュ」として配置し、ゲストにパーソナルな物語を提供することで、高い顧客満足度を得ています。しかし、そのためには、スタッフへの継続的な教育と、自律性を尊重する企業文化の醸成が不可欠です。画一的なマニュアル対応では、没入型体験の真価は発揮されません。
ゲストとの「共創」が生み出す価値
レポートでは、没入型体験と並んで、ゲストが体験の「受け手」から「創造者」へと変化する「共創(Co-creation)」の重要性も指摘しています。これは、特にデジタルネイティブであるGen Z世代が、自身の価値観や目的意識に合致した体験を求め、積極的に関与したがる傾向が強まっていることと密接に関連しています。彼らは、単に提供されるサービスを受け入れるだけでなく、自身のアイデアや嗜好を反映させ、パーソナライズされた体験を望んでいます。
共創の具体的な実践としては、例えば、ゲストが滞在中に参加できるワークショップの開催が挙げられます。地元の職人と共に伝統工芸品を制作したり、シェフから直接料理のレシピを学んだりする体験は、ゲストに「自分だけのオリジナル」という付加価値を提供します。また、ホテルのSNSや専用アプリを通じて、ゲストから次のイベント企画や客室アメニティに関するアイデアを募り、実際に採用するといった取り組みも有効です。これにより、ゲストはホテル運営の一部に貢献しているという帰属意識や、自身の意見が尊重されているという満足感を得ることができます。
このような共創の取り組みは、ホテルにとって単なるサービス改善に留まらず、ゲストとの強固なブランドロイヤルティを築く上で極めて重要です。ゲストは、単なる顧客ではなく、ホテルの「ファン」となり、その体験をSNSなどで積極的に発信することで、新たな顧客獲得にも繋がります。しかし、現場では、ゲストの多様な意見をどのように収集し、効率的に運営に反映させるかという課題に直面します。また、スタッフには、ゲストのアイデアを柔軟に受け入れ、実現に向けて調整するファシリテーション能力が求められます。これは、従来の「サービス提供者」としての役割から一歩踏み込んだ、より高度なコミュニケーションスキルと言えるでしょう。
テクノロジーと「人間的な触れ合い」の融合
没入型体験や共創を実現する上で、テクノロジーは不可欠な要素となります。VR/AR技術を活用した客室での仮想体験、AIによるパーソナライズされたレコメンデーション、スマートデバイスを通じたシームレスな情報提供などは、ゲスト体験を深化させる上で強力なツールとなり得ます。例えば、AIコンシェルジュがゲストの過去の滞在履歴や好みに基づいて、その日の気分に合わせた地元のイベント情報やレストランを提案することで、よりパーソナルな没入感を演出できます。これは、AIツールキットが拓くホテルDX:ゲストとスタッフの「情報アクセス民主化」と「ホスピタリティ進化」でも触れた、情報アクセスの民主化とホスピタリティ進化の一例です。
しかし、レポートが強調するのは、テクノロジーの活用はあくまで「人間的な触れ合い」を補完し、深化させるための手段であるという点です。どれほど先進的なテクノロジーを導入しても、最終的にゲストの心に残るのは、スタッフとの温かい交流や、予期せぬ感動的な瞬間です。テクノロジーは、ルーティンワークや情報提供の効率化を担い、スタッフはそれによって生まれた時間を、ゲスト一人ひとりと向き合い、深い関係性を築くことに集中できるようになります。
現場のホテリエからは、「AIがチェックインや簡単な問い合わせに対応してくれることで、私たちはゲストの表情をよく見て、本当のニーズを引き出す時間が増えた」という声も聞かれます。これにより、スタッフは単なる業務遂行者ではなく、ゲストの旅の「体験デザイナー」としての役割を担うことが可能になります。彼らには、テクノロジーを使いこなすデジタルリテラシーに加え、ゲストの感情を読み解く共感力、そして没入型体験のストーリーを語り、ゲストを巻き込むストーリーテリング能力が求められるようになります。これは、ホテリエが磨く「超汎用スキル」:市場価値を高める「未来のキャリア戦略」で言及されている「超汎用スキル」の具体的な実践とも言えるでしょう。
現場の挑戦と未来への提言
没入型体験と共創をホテル運営に組み込むことは、多くの挑戦を伴います。まず、人材育成の面では、従来のホスピタリティスキルに加え、前述のような新しいスキルセットを持つスタッフの育成が急務です。これには、継続的なトレーニングプログラムの導入や、スタッフのアイデアを尊重し、挑戦を奨励する企業文化の醸成が不可欠です。あるホテルでは、スタッフが自ら企画した没入型体験プログラムを社内でプレゼンし、優れたアイデアにはインセンティブを与える制度を導入しています。これにより、スタッフのモチベーション向上と、新たな体験価値の創出が両立されています。
次に、投資の面です。没入型体験の創出には、VR/ARデバイス、インタラクティブな展示物、地域の専門家との連携費用など、新たな設備投資やパートナーシップ費用が発生します。これらの投資が短期的な収益に直結しない場合もあるため、経営層には長期的な視点と、ブランド価値向上への強いコミットメントが求められます。また、テクノロジー導入においては、単に最新のものを導入するだけでなく、それがゲスト体験の向上とスタッフの業務効率化に真に貢献するかどうかを慎重に見極める必要があります。
さらに、文化変革も重要な要素です。画一的なサービス提供に慣れた組織では、ゲストの能動的な関与やスタッフの自律的な判断を促す共創の文化を根付かせることは容易ではありません。現場スタッフからは、「新しい取り組みは面白いが、日々の業務に追われる中でどこまで対応できるか不安がある」「ゲストからの予期せぬ要望に、マニュアル通りではない対応を求められることに戸惑う」といった声も聞かれます。これに対し、経営陣は明確なビジョンを示し、スタッフが安心して新しい役割に挑戦できるようなサポート体制と評価制度を構築する必要があります。これは、ホテル人材確保の最前線:総務人事が導く「採用・教育・定着」と「未来のホスピタリティ」で提言されている、戦略的な人材投資と定着の鍵とも重なります。
まとめ
2025年以降のホテル業界において、ゲストの期待は「滞在」から「体験」へと明確にシフトしています。EHLのレポートが示す「没入型体験」と「ゲスト体験の共創」は、この新しい時代におけるホスピタリティの方向性を示す羅針盤となるでしょう。テクノロジーを賢く活用し、効率化された時間とリソースを「人間的な触れ合い」の深化に注ぎ込むこと。そして、ゲストを単なる消費者ではなく、共に価値を創造するパートナーとして捉えること。これらが、ホテルが持続的な競争優位性を確立し、ゲストに忘れがたい感動を提供するための鍵となります。
ホテルは、単なる宿泊施設ではなく、ゲストの人生に彩りを添える「体験の舞台」へと進化を遂げようとしています。この変化の波を捉え、現場のスタッフ一人ひとりがその舞台の主役として輝けるよう、経営層は戦略的な投資と文化変革を推進していくべきです。


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