はじめに:顧客単価向上と顧客体験のジレンマ
ホテル業界において、収益を最大化することは永遠の課題です。特に、オンライン旅行会社(OTA)への手数料支払いが常態化し、新規顧客獲得コストが高騰する現代において、いかにして顧客一人当たりの売上(顧客単価)を高めるかは、経営の安定性を左右する重要な要素となっています。そのための有効な戦術として古くから知られているのが「アップセル」と「クロスセル」です。
しかし、これらの手法は一歩間違えれば「押し売り」と受け取られ、顧客満足度を低下させるリスクもはらんでいます。顧客はよりパーソナルで、自分のニーズに合った提案を求めており、画一的なセールスは敬遠される傾向にあります。この「収益向上」と「顧客体験の向上」という、時に相反するように見える二つの目標を両立させる鍵こそが、テクノロジーの活用です。
本記事では、ホテルビジネスにおける伝統的なマーケティング手法であるアップセルとクロスセルを、AIや顧客データプラットフォーム(CDP)といった現代のテクノロジーがいかにして革新し、収益性と顧客満足度を同時に引き上げるのかを深掘りしていきます。
第1章:基本の整理 – アップセルとクロスセルとは?
まず、基本的な用語の定義を確認しておきましょう。これらは混同されがちですが、明確な違いがあります。
アップセル(Up-selling)
アップセルとは、顧客が購入しようとしている商品やサービスよりも、上位の(より高価な)ものを提案し、購入を促す手法です。顧客の当初の予算を少し上回るものの、それ以上の価値を提供することで、客単価の向上を目指します。
ホテルにおける具体例:
- スタンダードルームを予約した顧客に対し、チェックイン時に空きがあれば、追加料金で眺望の良いデラックスルームや、より広いスイートルームへのアップグレードを提案する。
- 予約サイトで部屋を選んでいる際に、「月々プラス2,000円でクラブフロアへのアクセス権が付いたプランもございます」と表示する。
クロスセル(Cross-selling)
クロスセルとは、顧客が購入を決定した商品やサービスに加えて、関連する別の商品やサービスを提案し、「ついで買い」を促す手法です。顧客のニーズを広げ、滞在全体の体験価値を高めることで、売上の増加を図ります。
ホテルにおける具体例:
- 宿泊予約が完了した顧客に送る確認メールで、「ご滞在中に、当ホテル自慢のレストランでのディナーはいかがですか?事前予約で10%割引」と案内する。
- カップルでの宿泊客に対し、客室のタブレット端末から「記念日を彩るシャンパンとフラワーアレンジメントのルームサービス」を提案する。
- 家族連れの顧客に対し、近隣のテーマパークのチケット付きプランや、ホテル主催のキッズアクティビティへの参加を勧める。
これらの提案が成功すれば、ホテルは収益を増やせるだけでなく、顧客はより豊かで満足度の高い滞在を経験できるという、Win-Winの関係を築くことが可能です。
第2章:テクノロジーが変える「提案」の質とタイミング
従来、アップセルやクロスセルは、フロントスタッフの経験や勘に頼る部分が大きいものでした。しかし、テクノロジーの進化は、このプロセスをデータドリブンで、かつ体系的なものへと変貌させています。
1. 予約〜チェックイン前:パーソナライズされた「先回り提案」
顧客との最初のデジタル接点である予約プロセスは、絶好の機会です。予約完了後の確認メールや、宿泊数日前のリマインドメールは、もはや単なる事務連絡ではありません。
ここで活躍するのが、CRM(顧客関係管理)やMA(マーケティングオートメーション)ツールです。これらのツールは、顧客の過去の宿泊履歴、予約した部屋のタイプ、同行者の情報(例:子供の有無)などを分析します。そして、その顧客に最も響くであろうアップセル・クロスセルのオファーを自動で生成し、メールに差し込むのです。
例えば、以前の滞在でスパを利用した顧客には「おかえりなさいませ。今回も人気のスパトリートメントをご用意しております」とリマインドしたり、ビジネス利用の顧客には「高速Wi-Fiとプリンター完備のビジネスラウンジアクセス付きプラン」を提案したりすることが可能です。このようなパーソナライズされた提案は、顧客に「自分のことを理解してくれている」という特別感を与え、受け入れられやすくなります。
この領域では、OakyやNor1(Oracle Hospitality傘下)といった、ホテル特化型のアップセル支援ツールも存在し、多くのホテルで導入が進んでいます。
2. チェックイン時:スムーズな体験の中での提案
フロントでのチェックインも重要なタッチポイントです。しかし、長い列ができていたり、スタッフが多忙だったりすると、丁寧なアップセルの提案は困難になります。
ここでもテクノロジーが役立ちます。例えば、セルフチェックインのキオスク端末を導入しているホテルでは、その画面上で空室状況と連動したアップグレードオファーを提示できます。顧客は自分のペースで情報を確認し、興味があればタッチパネル操作一つでアップグレードを完了できます。対面でのプレッシャーがないため、顧客も気軽に検討できるというメリットがあります。
また、有人カウンターの場合でも、スタッフが使用するPMS(ホテル管理システム)の画面に、顧客情報と連携した「推奨提案スクリプト」を表示させることが可能です。例えば、「このお客様は記念日でのご利用です。シャンパンのルームサービスをお勧めしましょう」といったサジェストが自動で表示されれば、経験の浅いスタッフでも質の高い提案ができます。
3. 滞在中:必要な時に、必要な情報を
滞在中こそ、クロスセルの機会の宝庫です。客室に設置されたタブレット端末や、ゲスト自身のスマートフォンからアクセスできるQRコードメニューは、強力な販売チャネルとなります。
「小腹が空いたな」と思った時にタブレットを見れば魅力的なルームサービスのメニューが表示され、「明日は何をしようか」と考えている時にホテル主催のアクティビティ情報が目に入る。このような「顧客の潜在的なニーズ」を先回りして満たすことで、自然な形で追加の売上を生み出すことができます。
さらに、館内に設置したビーコン(近距離無線技術)とホテルアプリを連携させれば、より高度な提案も可能です。レストランの前を通りかかった顧客のスマートフォンに「本日限定のディナーコースのご案内」というプッシュ通知を送ったり、プールサイドでくつろいでいる顧客にドリンクメニューをポップアップ表示させたりと、顧客の状況に応じたリアルタイムマーケティングが実現します。
第3章:成功の鍵は「顧客データ」の統合と活用
これらのテクノロジーを真に機能させるために不可欠なのが、「データ」です。しかし、多くのホテルでは、顧客データが予約システム、POSシステム、レストラン予約台帳、スパの顧客リストなど、様々な場所に分散してしまっているのが実情です。
これからのホテルマーケティングで重要になるのが、これらのサイロ化したデータを一つに統合し、顧客の全体像を360度で可視化するための「CDP(Customer Data Platform / 顧客データ基盤)」です。
CDPを導入することで、以下のような多角的な分析が可能になります。
- 顧客セグメンテーション:「記念日利用の30代カップル」「子連れのファミリー層」「出張利用のビジネスパーソン」など、詳細なセグメントを作成。
- 行動分析:どの予約経路から来た顧客が、どのアップセルに反応しやすいか。公式サイトを閲覧した顧客は、どのページに興味を持っていたか。
- LTV(生涯顧客価値)の算出:どの顧客がホテルにとって最も価値が高いのかを特定し、ロイヤルカスタマー向けの特別なオファーを提供。
AIは、この統合された膨大なデータを分析し、「この顧客には、このタイミングで、このオファーを提示するのが最も効果的である」という最適解を導き出します。もはやそれは「勘」ではなく、データに基づいた科学的なアプローチです。このデータ活用基盤の構築こそが、競合との差別化を図り、持続的な収益成長を実現するための核心と言えるでしょう。
おわりに:提案は「おもてなし」の進化形
テクノロジーを活用したアップセルとクロスセルは、単なる販売促進手法ではありません。それは、顧客一人ひとりを深く理解し、その人の滞在がより豊かで思い出深いものになるような「最高のおもてなし」を、データという根拠を持って提供する試みです。
「押し売り」になるか「嬉しい提案」になるかの分岐点は、その提案が「ホテルの都合」なのか「顧客のため」なのか、という点に尽きます。テクノロジーは、後者を実現するための強力な武器となります。
自社の顧客データをどのように収集・統合し、どのようなテクノロジーを用いて顧客体験を向上させていくか。ホテルDXを推進する上で、アップセル・クロスセル戦略の再構築は、避けては通れない重要なテーマと言えるでしょう。
コメント