はじめに
ホテル総務人事部の皆様は今、「人材の流出」と「育成投資の回収失敗」という二重の課題に直面しているのではないでしょうか。コロナ禍からの回復期を経て、高いスキルを持つ優秀な社員(ホテリエ)が競合他社や異業界へ流出するケースが増え、採用コストと教育コストばかりがかさんでいる状況は、持続的な経営を困難にします。
本記事では、この構造的な課題を解決するために、従来の「人事(Human Resources)」の枠を超えた「People & Culture(人財と文化)」という視点が、いかにホテル経営の競争優位性に直結するのかを、具体的な戦略と海外の最新事例に基づいて解説します。
この記事を読むことで、貴社の人事・総務部門は、単なる管理業務から脱却し、離職率を低く抑え、優秀なホテリエが長く活躍し続ける「選ばれる職場」を戦略的に構築するためのロードマップを得ることができます。
結論(先に要点だけ)
- 従来の「人事管理」では、育成投資の回収と離職率低下は困難であり、「People & Culture (P&C)」への視点転換が必須です。
- P&Cの目的は、従業員満足度ではなく、組織文化を戦略的に設計・定着させ、エンゲージメントを収益に変えることです。
- 具体的な戦略として、「エンゲージメントスコアの定量化」「キャリアの複線化」「現場の文化浸透オペレーション」の3点が鍵となります。
- 米国高級ホテルでは、既にP&C専門の執行役員を配置し、採用・定着を経営戦略の中核に据えています。(出典:公式発表・海外IR)
なぜ今、「人事(HR)」ではなく「人財と文化(P&C)」の専門役員が必要なのか?
近年、特に海外の先進的なホテルグループにおいて、従来の「HR Director」ではなく、「Director of People and Culture」や「Chief People Officer」といった役職が設置される事例が増えています。これは単なる名称変更ではなく、ホテル業界における人材戦略の優先順位が根本的に変化したことを示しています。
ホテル業界で育成投資が回収できない構造的な課題とは?
ホテル業界は「人がサービスの中核」であるため、人材への初期投資(研修、OJT、OFE)は膨大です。しかし、この投資が回収される前に優秀な人材が離職してしまうという悪循環が常態化しています。
この背景には、以下の構造的な課題が存在します。
- キャリアパスの単線化と不明瞭さ:
従来のホテル組織では、フロント・料飲・予約といった部門を跨いだ横断的なキャリアや、専門性を深める複線的なキャリアパスが明確でない場合が多いです。そのため、優秀なホテリエが将来の成長を見込めず、他業界や外資系ホテルへ流出してしまいます。 - 「おもてなし」の評価基準の曖昧さ:
ホテリエの価値の源泉である「おもてなし」や「ホスピタリティ精神」は定性的な要素が多く、これを具体的なスキルや業績評価に結びつける仕組みが未整備だと、従業員は自分の貢献度が正当に評価されていないと感じやすいです。 - 組織文化の「偶然」依存:
組織文化は、現場のマネージャーやベテラン社員の属人的な努力に依存しがちで、全社レベルで統一された「選ばれる理由」となる文化を戦略的に設計できていないケースが多いです。
人材の定着率を向上させ、育成投資を回収するための具体的なキャリアパスの設計については、「ホテルで「育っても辞める」を断つ!育成投資を回収するキャリアパスの鍵は?」もご参照ください。
「人財と文化(P&C)」が解決する根本課題
P&Cの専門家は、単に採用・給与計算・労務管理を行うHR管理の役割だけでなく、「組織の文化そのものを経営戦略として設計・実行する」役割を担います。
つまり、彼らのミッションは以下の3点に集約されます。
- エンゲージメントの戦略化:従業員のモチベーションを測定・向上させ、それが直接的に顧客体験(CX)と収益につながる仕組みを構築する。
- 文化の浸透と標準化:企業理念やブランド価値を、現場の日常オペレーションに落とし込み、属人的ではない、再現性の高いサービス品質を担保する。
- タレントマネジメントの最適化:必要なスキルを持つ人材を中長期的に計画的に育成し、配置する。
【事例】The Meritage Resort & Spaから学ぶ「People & Culture」戦略
具体的に、P&C戦略を経営の中核に据えた事例を見てみましょう。
2026年1月10日、米国の高級リゾート The Meritage Resort and Spa(カリフォルニア州ナパ)は、Barbara Vale Quigley氏をDirector of People and Cultureに任命したことを公式に発表しました(出典:Hospitality Net)。
Quigley will oversee talent strategy, employee engagement, labor relations, and organizational culture for the resort’s expansive team. (Quigley氏は、リゾートの広範なチームのために、タレント戦略、従業員エンゲージメント、労使関係、組織文化を監督します。)
彼女の経歴の中で特筆すべきは、以前の職務において、彼女のリーダーシップの下で運営された施設が「トップチームメンバー満足度スコア」と「Best Place to Work(働きがいのある職場)」の認定を複数回獲得している点です。
この人事(IR)が示す重要なメッセージは、「人材管理(HR)」が「文化管理とエンゲージメント(P&C)」にシフトしていることです。
「働きがい」が直接的な収益源となる仕組み
P&C戦略の成功は、単に社員が気持ちよく働くことだけが目的ではありません。現場が生き生きと働くことで、以下の連鎖が生まれます。
- 従業員エンゲージメント向上(P&C戦略)
- サービス品質の安定と向上(現場運用への文化浸透)
- 顧客満足度(CS)および顧客体験(CX)の向上
- リピート率向上、ブランドロイヤルティ向上(収益増)
- 採用ブランド力の強化(採用コスト減)
特に高級リゾートにおいては、従業員の知識や情熱が、顧客が感じる「贅沢さ」の根幹を成します。P&C専門のリーダーを置き、現場の声を吸い上げ、組織文化に反映させることは、外部環境の変化に左右されない「真の競争優位性」を築くための投資なのです。
総務人事部が「People & Culture(P&C)」を主導するために必要な3つの戦略
従来のHR部門がP&C部門へと進化するために、総務人事部が主導すべき具体的な戦略は以下の3つです。
戦略1. 従業員エンゲージメントをどう「スコア」に変える?
「従業員満足度(ES)」と「従業員エンゲージメント」は異なります。ESは「会社に満足しているか」という受け身の指標ですが、エンゲージメントは「会社目標達成のために、従業員が積極的に貢献したいと思っている度合い」という能動的な指標です。
P&C戦略では、このエンゲージメントを定期的に定量化し、経営層と現場マネジメント層が共有することが重要です。
【具体的な現場運用】エンゲージメントサーベイの設計
年に一度のサーベイでは不十分です。四半期ごと、あるいは月に一度のショートサーベイ(パルスサーベイ)を実施し、以下の要素を測定・スコアリングします。
| 測定要素 | 質問例 | 総務人事部の活用方法 |
|---|---|---|
| 貢献実感 | 「私の仕事は顧客体験に直結していると感じるか?」 | 部門ごとの貢献度認知の違いを分析し、評価制度やフィードバック設計に反映。 |
| 成長機会 | 「今後1年で、新しいスキルを身につける機会があるか?」 | 部門ごとの研修ニーズを抽出し、キャリア複線化のプログラム提供を調整。 |
| 上司との信頼関係 | 「直属の上司は私の意見を真剣に聞いてくれるか?」 | 管理職へのマネジメント研修(特にフィードバック手法)の必要性を判断。 |
| ブランド共感 | 「このホテルを友人や家族に自信を持って勧められるか?」 | 組織文化の浸透度を測り、ブランド理念と現場行動のギャップを特定。 |
得られたスコアは、部門責任者のKPIの一部として組み込み、エンゲージメント向上のための具体的なアクションを促すことが、P&C戦略の成功の鍵となります。
戦略2. 採用チャネルとタレントパイプラインをどう構築する?
人手不足の時代において、ホテルの採用は「待ち」ではなく「攻め」の姿勢が必要です。P&C戦略の視点では、採用は単なる欠員補充ではなく、「未来の組織文化を担うタレント」を探す活動となります。
多様なスキルを持つ人材の獲得
現代のホテリエに求められるスキルは、「接客」だけではありません。DX推進に伴い、データ分析能力、システム運用スキル、AIツールの活用能力など、テクノロジーに強い人材も不可欠です。しかし、これらを全て経験者に求めると採用コストは高騰します。
総務人事部が主導すべきは、ポテンシャル採用と異業種からの転職組に対する明確な育成計画です。例えば、IT知識を持つ人材にOJTでホスピタリティスキルを教え込むプログラムや、逆にベテランホテリエにデジタルスキルを学ばせるアップスキリングプログラムを設計します。
【参照記事】なぜエース社員ほど辞める?育成投資を回収する人事戦略とは?
現場運営に即した採用基準の再定義
P&C部門は、採用基準を「即戦力」という曖昧な基準から、「ブランドの文化に適合するポテンシャル」と「新しい技術を学ぶ意欲」へとシフトさせるべきです。
- 技術的スキル:テクノロジーで代替可能な業務(チェックイン/アウト、予約管理)は最低限の習得を求め、それ以上の時間は顧客対応へ集中させる。
- 文化的適合性(カルチャーフィット):入社前に企業文化への理解度を測るワークショップや、現場社員とのカジュアル面談(非公式な場)を積極的に取り入れ、ミスマッチを最小限に抑えます。
戦略3. 曖昧な「ホスピタリティ精神」をどう組織文化として定着させる?
ホテリエが口にする「お客様のために」というホスピタリティ精神は美徳ですが、これが現場でバラバラに解釈されてしまうと、サービス品質は不安定になります。P&C戦略は、この精神を具体的な行動指針として定義し、日々の業務に組み込みます。
判断基準の言語化:「何をしないか」を定める
文化を定着させる最も効果的な方法は、「企業が何を大切にし、何をしないと決めているか」を明確にすることです。
例えば、「ゲストの要望には全て応える」という文化では、従業員は疲弊し、離職につながります。代わりに、「ゲストの期待を超える、記憶に残る体験を意図的に提供する」といった目標を設定し、「そのために、定型業務(バックオフィス業務など)はAIやRPAで自動化する」とセットで宣言します。
現場スタッフが「雑務」から解放され、顧客との対話に時間を使える環境こそが、最高の組織文化を生み出します。AIを活用した業務効率化の視点については、「なぜホテルはAIで「雑務」を減らせる?Quick Winで業務効率化する秘訣」が参考になります。
管理職を「文化の伝道師」に変える
P&C戦略において、最も重要な役割を担うのは中間管理職(マネージャー)です。彼らは、経営層のビジョンと現場の現実をつなぐ役割を果たします。
- 行動変容のトレーニング:マネージャーに対し、エンゲージメントスコアに基づいた部下との対話方法、ブランド価値を体現するフィードバック手法を徹底的にトレーニングします。
- 権限の委譲:現場スタッフが組織文化に基づいて即座に判断・行動できる範囲(裁量権)を明確に定義し、権限を委譲します。これにより、スタッフは「やらされている」ではなく、「自分で意思決定している」というオーナーシップを感じやすくなります。
総務人事部が明日から実行できる「定着率向上」のためのチェックリスト
P&Cへの視点転換は大規模な組織改変を伴うことがありますが、総務人事部がまず着手できる具体的なアクションプランをチェックリスト形式でまとめました。
定着率向上のためのアクションチェックリスト
| フェーズ | チェック項目 | 難易度 | 現場へのメリット |
|---|---|---|---|
| 測定・分析 | エンゲージメントを年4回以上、パルスサーベイで測定できているか? | 中 | 現場のストレス源を早期特定できる |
| 離職理由を「給与・待遇」だけでなく「上司との関係」「成長機会」に分けて分析できているか? | 低 | 離職の真の原因を特定できる | |
| 育成・キャリア | 入社後1年間の育成投資額と、平均在籍期間を比較し、ROI(投資対効果)を算出できているか? | 高 | 育成プログラムの費用対効果を可視化できる |
| 他部門への異動や、スペシャリストとしての専門職へのキャリア複線化の制度が設計されているか? | 中 | 社員に将来の展望を示せる | |
| 文化・環境 | 「選ばれる職場」であることを示す具体的な文化(例:残業ゼロ目標、服装規定の緩和など)を明確に発信しているか? | 低 | 社員のモチベーションに直結する |
| 現場スタッフがテクノロジー(AI、RPAなど)を活用することで、顧客との対話時間を1日あたり何分増やせたか測定しているか? | 中 | 「雑務が減った」という実感を得られる |
よくある質問(FAQ)
Q1: 「People & Culture (P&C)」と「Human Resources (HR)」は何が違いますか?
HRは主に「管理業務(採用、給与、労務、コンプライアンス)」に焦点を当てます。一方、P&Cは、それらの管理業務に加えて「組織文化の設計」「従業員エンゲージメントの戦略的向上」「タレント戦略の構築」といった、より経営層に近い戦略的な役割を担います。P&Cは「人を資本として捉え、成長させる」視点が強いのが特徴です。
Q2: P&C部門を立ち上げるために、すぐに役員ポストを作るべきですか?
必ずしも最初から役員ポストは必要ありません。まずは既存の人事部門内で、エンゲージメントと組織文化に責任を持つリーダー(マネージャー)を指名し、上記で解説した3つの戦略(測定、育成、文化定着)から小さく開始することが現実的です。重要なのは、経営層がP&Cを「コスト」ではなく「競争優位性の源泉」と認識することです。
Q3: 育成投資のROI(投資対効果)を具体的にどう算出しますか?
ROIの計算式はシンプルです。「(投資による利益 – 投資コスト)÷ 投資コスト」で計算します。ホテル業界では、「投資コスト」は研修費用、人件費、採用費用など。「投資による利益」は、離職率低下による採用コスト削減額、エンゲージメント向上による生産性向上額(売上向上、エラー率低下など)を推定して算出します。特にエース社員の離職が減った場合のコストインパクトは大きいです。
Q4: ホテル業界で「Best Place to Work」になる具体的なメリットは何ですか?
最も大きなメリットは採用競争力の向上です。ブランド力が高まることで、求人媒体への依存度が下がり、採用コストが削減されます。また、定着率が安定することで、サービス品質が向上し、結果的に顧客満足度とリピート率が向上します。
Q5: 若年層(Gen Z)の定着率を上げるためにP&Cは何をすべきですか?
Gen Zは「意味と目的」を重視する傾向が強いため、単なる待遇だけでなく、仕事が社会や地域にどう貢献しているかを明確に伝える必要があります。また、フィードバックの頻度を高め(リアルタイムに近い形)、キャリアの成長機会を具体的に示すことが効果的です。特に、AI活用などで雑務が減り、顧客と向き合う時間が増えることが、彼らの「貢献実感」を高めます。
Q6: エンゲージメントサーベイで悪い結果が出た場合、どう対処すべきですか?
悪い結果が出たこと自体を隠さず、透明性を持って公開することが、信頼構築の第一歩です。重要なのは「なぜそうなったか」を現場と対話すること。結果に基づき、経営層が具体的かつ迅速な改善策(例:特定の部署のシフト見直し、マネジメント研修の実施など)を実行し、その進捗を定期的に共有することが、次のエンゲージメント向上につながります。
まとめ
ホテル業界における人材戦略は、もはや単なる「管理」で成立しません。優秀なホテリエを定着させ、育成投資を回収するためには、「People & Culture(人財と文化)」を経営戦略の中核に据える必要があります。
総務人事部の皆様は、従来のHR管理業務に縛られず、エンゲージメントの定量化、戦略的なタレントパイプラインの構築、そして何よりも「選ばれる職場」となるための組織文化の設計者として、変革をリードすることが求められています。
このP&Cへの転換こそが、2026年以降、人手不足が続くホテル業界において、持続的な成長と高い競争優位性を確立するための鍵となるでしょう。


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