はじめに
2025年、ホテル業界は依然として人材確保と定着という喫緊の課題に直面しています。観光需要の回復に伴い、現場の業務負荷は増大する一方で、労働力不足は深刻化の一途を辿っています。特に、総務人事部にとっては、いかに優秀な人材を採用し、育成し、そして長く自社に留まってもらうかという命題が、事業継続の成否を分ける重要な戦略となっています。
これまでの人材戦略では、研修制度の充実やキャリアパスの提示といった「働きがい」に焦点を当てるアプローチが主流でした。しかし、経済状況や社会情勢が変化する中で、従業員がホテルで働く上で「得られるもの」の価値そのものを見直す時期に来ています。特に、生活の基盤となる「報酬」は、従業員のモチベーション、定着率、そしてひいてはホテル全体のサービス品質に直結する、極めて重要な要素です。
本稿では、ホテル業界における人材戦略の核心として、賃金・報酬体系の再構築に焦点を当てます。具体的な事例を交えながら、総務人事部がどのように賃金戦略を立案・実行し、持続可能な人材基盤を築くべきかについて深く掘り下げていきます。
業界の常識を打ち破る賃金戦略:Ventive Hospitalityの事例
ホテル業界の総務人事部が直面する課題の一つに、他産業と比較して低いとされる賃金水準があります。特にエントリーレベルのスタッフにとって、生活費の高騰は深刻な問題であり、これが離職の一因となることも少なくありません。しかし、こうした業界の慣習に果敢に挑戦し、新たなベンチマークを設定する動きも現れています。
インドのホスピタリティプラットフォームであるVentive Hospitality Limitedは、2025年11月、プネーにあるマリオット系列ホテルにおいて、従業員の最低月給を20,000ルピー(手取り)に引き上げるという画期的な施策を発表しました。これはインドのホスピタリティセクターにおいて、労働力に対する報酬の新たな基準を打ち立てるものです。詳細はこちらのニュース記事で確認できます。Ventive Hospitality Sets a New Benchmark in Workforce Pay for India’s Hospitality Sector
この施策の背景には、インドのホスピタリティ業界が国内最大級の雇用創出産業であるにもかかわらず、エントリーレベルの賃金構造が都市部および地方都市における生活費の上昇に追いついていないという現実があります。Ventive Hospitalityは、この賃金引き上げを通じて、従業員の経済的幸福と長期的な労働力安定へのコミットメントを明確に示しました。
この動きは、単なる賃上げに留まらず、労働力不足、運用上の要求、高まるゲストの期待、そしてより強靭な人員配置戦略という業界が抱える課題を乗り越えるための、先進的な青写真を提示しています。Ventive HospitalityのCEO、Ranjit Batra氏が「これは人材への将来を見据えた投資である」と述べているように、従業員が尊重され、サポートされ、インスピレーションを感じることで、ゲストに記憶に残る体験を創造し、長期的な関係を築くことができるという強い信念が込められています。
なぜ「賃金」が人材定着と採用の鍵となるのか
Ventive Hospitalityの事例が示すように、賃金は単なる労働の対価ではありません。それは従業員の生活を支え、モチベーションを喚起し、最終的にホテルのサービス品質とブランド価値を左右する戦略的な投資です。
従業員の生活とモチベーション
現場で働く多くのホテリエにとって、日々の生活を安定させることは最も基本的なニーズです。十分な報酬が得られない場合、経済的な不安は常に付きまとい、仕事への集中力やエンゲージメントを低下させます。ホテル業界では「やりがい」や「おもてなしの心」が強調されがちですが、これらは経済的な基盤があって初めて真価を発揮するものです。現場スタッフからは「この給料では家族を養うのが難しい」「将来設計が見えない」といった切実な声が聞かれ、これが離職へと繋がる大きな要因となっています。
適切な賃金は、従業員が自身の仕事に価値を感じ、ホテルへの忠誠心を育む上で不可欠です。報酬が公平であると感じられれば、従業員はより一層責任感を持って業務に取り組み、ゲストへのサービス品質向上にも繋がります。これは、単に「給料が高いから辞めない」という単純な話ではなく、「自分は会社から正当に評価されている」という承認欲求を満たし、自己肯定感を高める効果があるのです。
採用競争力の強化
ホテル業界は、少子高齢化による労働人口の減少に加え、コロナ禍を経て他業界への人材流出が加速しました。特に若年層の採用においては、IT業界やコンサルティング業界など、より高い報酬と明確なキャリアパスを提供する他業界との競争が激化しています。この状況下で、ホテル業界が従来の賃金水準に固執することは、優秀な人材の獲得をさらに困難にします。
Ventive Hospitalityのように、業界のベンチマークを超える報酬を提示することは、求職者にとって大きな魅力となります。特に、就職活動中の学生や転職を検討している経験者にとって、賃金は企業選択の重要な判断基準の一つです。競争力のある賃金は、単に多くの応募者を集めるだけでなく、質の高い人材を引き寄せる強力な磁石となり、採用活動の効率と成功率を大幅に向上させます。
賃金戦略を成功させるための具体的なアプローチ
では、総務人事部は具体的にどのようなアプローチで賃金戦略を構築し、実行していくべきでしょうか。単なる賃上げに終わらせず、持続的な人材定着と企業成長に繋げるためには、多角的な視点と戦略的な計画が不可欠です。
1. 市場調査とベンチマーク設定
まず、自社の賃金水準が市場においてどの位置にあるのかを正確に把握することが重要です。競合するホテルチェーンはもちろん、地域内の他産業(特にサービス業や小売業など、人材が流動しやすい業界)の賃金水準も調査対象とすべきです。これにより、自社が採用市場で競争力を持つために必要な報酬水準を特定できます。
単一の職種だけでなく、部門や役職ごとの詳細なベンチマークを設定し、定期的に見直す体制を構築します。これにより、特定の職種で人材が流出しやすい傾向がある場合、ピンポイントで報酬体系を見直すなどの柔軟な対応が可能になります。
2. 透明性の確保とコミュニケーション
従業員が自身の報酬体系に対して納得感を持つためには、その透明性が不可欠です。給与テーブルや評価基準を明確にし、従業員が「なぜこの給料なのか」「どうすれば給料が上がるのか」を理解できるようにします。不明瞭な報酬体系は不信感を生み、モチベーション低下や離職に繋がる可能性があります。
定期的な面談や説明会を通じて、報酬体系や評価制度について従業員と積極的にコミュニケーションを取ることも重要です。従業員の疑問や不満に耳を傾け、必要に応じて制度の改善に繋げる姿勢が、信頼関係を構築します。
3. パフォーマンス評価との連動
単に基本給を上げるだけでなく、個人のパフォーマンスや貢献度に応じた報酬制度を導入することで、従業員のモチベーションをさらに高めることができます。明確な評価基準に基づき、成果を出した従業員が正当に評価され、それが報酬に反映される仕組みは、組織全体の生産性向上にも寄与します。
例えば、ゲストからの高い評価や、コスト削減への貢献、新規顧客獲得への寄与など、ホテルの業績に直結する具体的な成果を評価項目に加えることが考えられます。ただし、評価基準は公平かつ客観的である必要があり、評価者への適切なトレーニングも欠かせません。
4. 福利厚生との組み合わせによる総合的なウェルビーイング施策
賃金は重要ですが、それだけで従業員の満足度や定着率が決まるわけではありません。充実した福利厚生は、賃金を補完し、従業員の総合的なウェルビーイングを向上させる上で不可欠です。例えば、以下のような施策が考えられます。
- 住居手当・寮の提供:特に都市部のホテルでは、家賃補助や社員寮の提供が、従業員の経済的負担を大きく軽減し、定着率向上に貢献します。過去の記事「ホテル人財戦略の核心「住環境」:採用・定着を加速する「総務人事」の未来投資」でも触れたように、住環境の充実は採用・定着の重要な鍵となります。
- 食事補助:従業員食堂の充実や食事手当の支給は、日々の生活を支える上で大きな助けとなります。
- 健康支援:定期健康診断の充実、メンタルヘルスケアの提供、フィットネスジムの優待利用など、従業員の心身の健康をサポートする施策は、長期的な就業を促進します。
- キャリア開発支援:資格取得支援、語学研修、マネジメント研修など、従業員のスキルアップとキャリア形成を支援する制度は、成長意欲の高い人材を引きつけ、定着に繋がります。これについては「ホテル人材危機を乗り越える:総務人事が描く「キャリア戦略」と「働きがい」」でも詳しく解説しています。
- ワークライフバランスの推進:有給休暇の取得促進、育児・介護休業制度の充実、柔軟な勤務体系の導入などは、従業員が仕事と私生活を両立できる環境を提供し、エンゲージメントを高めます。総合的なウェルビーイングの重要性は「ホテル人材戦略の核心:ウェルビーイングが育む「ホテリエの誇り」と「真のホスピタリティ」」でも強調されています。
これらの福利厚生は、単なるコストではなく、従業員が安心して長く働ける環境を整えるための戦略的投資と捉えるべきです。
5. 定期的な見直しと改善
市場環境や社会情勢、従業員のニーズは常に変化します。そのため、一度構築した賃金・報酬体系を固定化するのではなく、定期的に見直し、改善していく柔軟な姿勢が求められます。従業員アンケートや離職者面談を通じて、報酬体系に対する意見や不満を吸い上げ、常に最適化を図るサイクルを確立することが重要です。
賃金戦略がもたらす長期的な企業価値向上
競争力のある賃金戦略は、短期的なコスト増と捉えられがちですが、長期的にはホテル全体の企業価値向上に大きく貢献します。
- 採用コストの削減:魅力的な報酬は、採用活動の効率を高め、広告費や人材紹介手数料などの採用コストを削減します。また、定着率の向上は、新規採用の必要性を減らし、結果的に採用にかかる総コストを抑制します。
- トレーニング投資の回収率向上:離職率が低いほど、従業員へのトレーニング投資が無駄になりにくく、そのスキルや知識がホテルに長く貢献します。これは、サービス品質の安定と向上に直結します。
- サービス品質の向上と顧客満足度への貢献:経済的に安定し、モチベーションの高い従業員は、より質の高いホスピタリティを提供できます。これがゲストの満足度を高め、リピート率向上や口コミによる新規顧客獲得に繋がります。
- ブランドイメージの向上と企業文化の醸成:従業員を大切にする企業姿勢は、社内外に対してホテルのブランドイメージを向上させます。「従業員満足度が高いホテル」という評判は、採用活動においても有利に働き、良い人材がさらに良い人材を呼ぶ好循環を生み出します。
総務人事部が描くべき未来は、単に人手を確保することに留まりません。賃金戦略を含む総合的な人材戦略によって、従業員一人ひとりが誇りを持って働き、その能力を最大限に発揮できる環境を構築することです。これは、ホテルが持続的に成長し、変化の激しい時代を乗り越えるための不可欠な基盤となります。総務人事部が主導する人材戦略の全体像については「ホテル人財戦略2025:総務人事が導く「採用・育成・定着」の未来図」もご参照ください。
まとめ
ホテル業界における人材の採用、育成、定着は、2025年以降も総務人事部にとって最重要課題であり続けます。その解決策として、Ventive Hospitalityの事例が示すように、競争力のある賃金戦略は単なるコストではなく、ホテル経営の未来を左右する戦略的投資であると認識すべきです。
総務人事部は、市場調査に基づいた公平で透明性の高い報酬体系を構築し、パフォーマンス評価と連動させることで、従業員のモチベーションとエンゲージメントを最大化する必要があります。さらに、住居手当、食事補助、健康支援、キャリア開発支援といった福利厚生を組み合わせることで、従業員の総合的なウェルビーイングを向上させ、安心して長く働ける環境を提供することが求められます。
これらの取り組みは、短期的なコスト増を上回る長期的なメリット、すなわち採用コストの削減、トレーニング投資の回収率向上、サービス品質の向上、そしてホテルブランドの価値向上をもたらします。総務人事部がリーダーシップを発揮し、賃金戦略を軸とした持続可能な人材基盤を築くことこそが、未来のホテル業界を牽引する鍵となるでしょう。


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