はじめに
慢性的な人手不足と採用コストの高騰は、今日のホテル業界における最大の経営課題です。特に、従来の採用市場に頼り続けると、賃金競争に巻き込まれるだけでなく、入社後のミスマッチやOJT(On-the-Job Training)の非効率性から早期離職が多発し、結果として収益を圧迫します。
本記事は、ホテル業界の総務人事部門の責任者に向けて、「地域コミュニティを巻き込んだ新しい人材採用・育成戦略」を解説します。具体的には、ロンドンの高級ホテル「The Newman Hotel」が、未開業の施設を「ポップアップ・ホスピタリティスクール」として活用し、地域の採用障壁を持つ個人を育成・採用した具体的な事例(出典:Hospitality Net)を分析します。
この革新的なアプローチが、どのようにして採用母集団を拡大し、育成コストを構造的に削減し、結果としてホテルの収益安定化に寄与するのかを、具体的な運営プロセスと判断基準を交えて深掘りします。
結論(先に要点だけ)
- ロンドンのThe Newman Hotelは、未開業の自社施設内で「ポップアップ・ホスピタリティスクール」を開設し、地域コミュニティの未就労者を採用しました。
- このモデルは、採用市場外の地域人材を直接育成することで、採用母集団の拡大とミスマッチによる早期離職を構造的に解消します。
- 入社前に体系的な研修を完了させるため、現場のOJT負荷を劇的に低減し、指導層のバーンアウト(燃え尽き症候群)を防ぐ効果があります。
- ホテル開発初期から地域貢献を組み込むことで、地域の信頼を獲得し、サステナブルな採用基盤を確立することが可能です。
なぜ従来の採用・育成方法では高コスト・高離職率になるのですか?
ホテル業界における人材コストと離職率の問題は、単なる賃金の問題にとどまらず、構造的な非効率性に根差しています。人事部門が抱える主要な課題は、主に「市場競争の激化」「OJTの属人化」「ミスマッチの多発」の三点に集約されます。
市場競争の激化と採用コストの慢性的な高騰
観光需要が回復し、新規ホテルの開業が続く中、経験者や即戦力人材の獲得競争は激化しています。その結果、求人広告の掲載費用やエージェントフィーが高騰する傾向にあります。特に地方やリゾート地では、賃金水準の引き上げ圧力も高まっており、人件費が収益を圧迫する主要因となっています(出典:観光庁 宿泊旅行統計調査の動向、業界統計)。
これにより、ホテル側は採用コストを回収する前に従業員が離職してしまうという、負のサイクルに陥りやすくなります。
OJTの非効率化と指導層の負荷増大
多くのホテルでは、入社後のトレーニングを現場の先輩スタッフによるOJTに依存しています。しかし、OJTは指導者のスキルや経験に大きく依存するため、教育内容が属人化し、品質にばらつきが出やすいという問題があります。
さらに、人手不足の現場において、既存スタッフが自身の業務をこなしながら新人指導を行うことは、指導層の業務負荷を劇的に増大させます。これが指導層のストレスやバーンアウトを引き起こし、指導層の離職につながるケースも少なくありません。
ホテルの指導層の定着率を向上させるための戦略については、以下の記事でさらに詳しく解説しています。
ホテル指導層の離職を防ぐには?非効率OJTをDXで構造化する育成戦略
ミスマッチによる早期離職の多発
ホテル業界の「ホスピタリティ」という概念は抽象的であり、就職・転職前に現場のリアリティを掴むことが難しい業界です。採用面接でいくら熱意を確認しても、入社後に業務の厳しさ、不規則な勤務体系、または求めるサービスレベルとのギャップに直面し、早期に離職するケースが目立ちます。
人事部門にとって、採用と初期研修にかけた時間と費用が、数ヶ月で無駄になってしまうことは、大きな痛手です。
The Newman Hotelはどのような「場」と「仕組み」で地域人材を獲得しましたか?
ロンドン・フィッツロヴィアにオープンしたThe Newman Hotelは、これらの従来の課題を回避するために、革新的な地域連携型の採用・育成戦略を採用しました。
未開業ホテルを「実習施設」に変える戦略
The Newman Hotelは、採用活動において、従来の求人広告やエージェントを通じた経験者採用にのみ依存するのではなく、Saira Hospitalityという専門組織と提携しました。そして、開業前のまだ家具が搬入されたばかりの自社施設内で、「ポップアップ・ホスピタリティスクール」を開設したのです(出典:Hospitality Net 公式発表)。
これは、施設が稼働していない遊休期間を、単なる準備期間としてではなく、「人材育成期間」として最大限に活用する戦略です。これにより、新入社員は実際のホテルの環境で、外部の専門家から体系的な指導を受けることが可能になります。
ターゲットを「採用障壁を持つ地元住民」に絞る
このスクールの最大の独自性は、ターゲットを「採用障壁(barriers to employment)を持つ地元コミュニティの個人」に定めた点です。これには、長期失業者、シングルペアレント、または安定した職歴がない若者などが含まれます。
従来のホテル採用では見過ごされがちであった、地域の潜在的な労働力を掘り起こし、彼らにホスピタリティキャリアの構築に必要な知識とスキルを提供することで、以下の効果を生み出しました。
- 採用母集団の拡大:競争の激しい既存の採用市場から外れ、新しい人材プールを確保。
- 地域貢献と信頼構築:地元住民の雇用を創出することで、ホテルが地域社会の一員であることを明確に示し、コミュニティからの信頼と支持を獲得。
- 高い定着率の期待:ホテルの価値観や業務内容を深く理解した上で入社するため、ミスマッチによる早期離職リスクを大幅に低減。
「ポップアップ・ホスピタリティスクール」の具体的な運営プロセスと内容を教えてください
このモデルは、単に知識を教えるだけでなく、「ホテルで働くための基礎的な姿勢」を体系的に育成する点に重点が置かれています。人事部門がこのモデルを導入する際に参考となる、具体的な運営プロセスを解説します。
ステップ1:外部専門機関(Saira Hospitalityなど)との提携
ホテル側は、ホスピタリティの専門教育に実績のある外部パートナー(この事例ではSaira Hospitality)と提携します。これにより、ホテル社員が片手間で教えるOJTではなく、質の高いカリキュラムと指導ノウハウを確保できます。パートナーは、研修の設計、講師の確保、そして何よりも「採用障壁を持つ人々」に対する指導の専門知識を提供します。
ステップ2:研修場所としての「未開業施設」の活用
新しいホテルが開業する前の施設は、最高の研修環境となります。まだゲストがいないため、設備や部屋を自由に利用でき、実際のチェックイン/アウト、客室清掃、F&Bサービスといったオペレーションを、時間をかけて模擬的に実行できます。これにより、新人はプレッシャーなく、現場に近い環境でスキルを習得できます。
この「場」の活用は、ホテル側のコスト効率も高めます。外部の研修施設を借りるコスト、または既存のホテル部門の稼働を止めて研修を行うコストが発生しないためです。
ステップ3:ホスピタリティの本質を教える構造化された研修
ポップアップスクールでは、単なるマニュアルの読み込みや技術指導ではなく、ホテリエとしての「基本的なソフトスキル」と「価値観」を徹底的に教え込みます。
具体的な研修内容の例
- コミュニケーションスキル:異なる文化・年齢層への適切な対応、クレーム対応の基礎。
- ホスピタリティマインド:顧客のニーズを先読みする能力、ホテルのブランド価値の理解。
- 実務シミュレーション:チェックイン/アウトの流れ、ハウスキーピングの手順、レストランサービスの流れをロールプレイング形式で実施。
特に重要なのは、候補者がホテリエとしてのアイデンティティを確立できるようにサポートすることです。これにより、入社後のモチベーション維持と、業務へのコミットメントを高める効果が期待できます。
ステップ4:研修修了者からの採用(選考の実施)
研修プログラムを修了した候補者の中から、ホテルの求めるスキルレベルと価値観に合致した人材を優先的に採用します。研修を通じた長期的な評価が可能となるため、通常の数回の面接では見抜けない適性や協調性を判断でき、採用ミスマッチを最小限に抑えられます。
The Newman Hotelの事例では、この候補者プールから多くのチームメンバーを採用できたと報告されています(出典:Hospitality Net)。
ホテル人事部がこのモデルを導入するための「判断基準」と「ステップ」
この地域密着型採用モデルは、新規開業時だけでなく、既存ホテルチェーンが地域での採用を強化したい場合にも適用可能です。人事部門が導入を検討するための判断基準と具体的なステップを示します。
導入判断基準:あなたのホテルはどちらに当てはまりますか?
| 判断項目 | A. 導入を検討すべきホテル | B. 従来の採用で十分なホテル |
|---|---|---|
| 採用難易度 | 常に慢性的な人手不足に悩む(特にリゾート地や地方都市) | 都市部で応募者が多く、既存の採用チャネルが機能している |
| 新規施設/改装計画 | 新規開業または大規模改装を控えており、未稼働の期間がある | 特に予定なし、既存の現場を止めずに研修を行う必要がある |
| 地域の状況 | 地域内に未就労者や職業訓練を必要とする層が多い | 地域の雇用率が高く、人材プールが限られている |
| 採用コスト | 採用コスト(広告費、エージェントフィー)が売上の5%を超えている | 採用コストが安定しており、予想外の変動が少ない |
もし貴社がAの条件に多く当てはまる場合、採用市場を変えるこのアプローチは、長期的な競争力を高めるための重要な投資となります。
広告の選定においては、効率的な採用チャネルの模索も重要です。多岐にわたる媒体を比較検討し、費用対効果の高い方法を見つけるプロセスは欠かせません。
【求人広告ドットコム】のように、複数の求人広告を一括で取り扱うサービスを利用するのも一つの手です。
導入に向けた具体的なアクションステップ
ステップ1: 地域行政およびNPOとの連携(社会貢献との両立)
まず、地元の職業訓練センター、社会福祉協議会、または未就労者支援を行うNPOにアプローチします。この連携により、ホテル側は研修対象となる候補者のリストを提供してもらえるだけでなく、行政からの補助金や支援プログラムの対象となる可能性も生まれます。これは、単なる採用活動ではなく「地域の社会貢献活動」として位置づけることが成功の鍵です。
ステップ2: 研修プログラムの構造化とOJTからの脱却
現場の業務負荷を減らすため、研修プログラムを徹底的に構造化します。具体的には、どのスキルを「ポップアップスクール(座学+模擬実習)」で教え、どのスキルを「入社後の現場OJT」に残すかを明確に区分します。目標は、入社時点で即戦力に近い基礎力を身につけさせることです。
- スクール期間で習得すべきスキル:ホスピタリティの定義、接客用語、基本オペレーション(チェックイン/アウトの手順、清掃基準)、危機管理の基本。
- 現場OJTで習得すべきスキル:ホテル独自のシステム操作、特定の顧客対応、指導層による個別フィードバック。
この構造化により、現場スタッフが新人に教えるべき内容が標準化され、指導負担が軽減されます。
ステップ3: 育成コストと採用コストの複合評価
このモデルのコストを評価する際は、「育成期間中の費用」と「従来の採用コスト+早期離職コスト」を比較する必要があります。
| コスト項目 | 従来のモデル | ポップアップスクールモデル |
|---|---|---|
| 初期採用費用 | 高(広告費、エージェントフィー) | 低〜中(NPO連携による候補者獲得) |
| 育成期間費用 | 低(現場OJTによる見えない指導コスト) | 高(講師費用、教材費用、施設準備費用) |
| 早期離職コスト | 高(ミスマッチ多発により再採用コスト発生) | 極めて低(適性評価済みのため) |
| トータルコスト(年間) | 不確実性が高く、市場変動に左右される | 初期投資はかかるが、長期的に安定し、予測可能 |
短期的な費用対効果ではなく、人材の定着率向上と、指導層の業務負荷軽減による「隠れたコスト削減効果」を含めて評価することが重要です。
この採用モデルにおける「コスト」と「運用負荷」の課題は何ですか?
地域密着型採用は有効な手段ですが、導入にはいくつかの課題とリスクも伴います。これらを事前に把握し、対策を講じることが成功の前提となります。
課題1:研修プログラムの質の担保と講師リソース
このモデルの成否は、研修プログラムの質に直結します。外部の専門機関に完全に依存する場合、提携コストが高額になる可能性があります。逆に、自社で研修を内製化しようとすると、プログラム開発と講師育成に多大なリソースを割く必要が生じます。
【対策】
自社でコアなホスピタリティマインドを教える部分を担い、実務的なスキルや、特にデジタルツール操作といった部分は、外部の専門研修サービスを活用し、ハイブリッドで運営することが効率的です。例えば、今後のホテリエに必須となるデータリテラシーや生成AI活用能力などの基礎研修は、法人向けサービスを利用することで、講師の負荷を軽減できます。
法人向け生成AI研修サービス【バイテックBiz】の様なサービスの利用も検討対象となるでしょう。
課題2:候補者の多様性への対応
採用障壁を持つ地元住民をターゲットとする場合、候補者のバックグラウンド、過去の職歴、教育レベルは極めて多様になります。これにより、従来の画一的な研修では対応できない個別指導が必要となり、指導者側の認知負荷が増大する可能性があります。
【対策】
研修初期段階で、個人の学習スタイルや基礎スキルレベルを測定するアセスメントを導入し、能力別にグループ分けや個別フォロー体制を確立します。また、ホテルの業務を細分化し、必ずしも全業務を完璧にこなせなくても活躍できる「ジョブ型」の運用体制を準備しておくことも重要です。
ホテル運営におけるジョブ型の運用については、以下の記事も参考にしてください。
ホテル評価の属人化をジョブ型で撲滅!収益を最大化する新制度設計は?
課題3:未開業施設活用のタイミングの難しさ
ポップアップスクールは未開業施設で行うからこそ効果が高いですが、ホテル開発プロジェクトの進行状況によって、利用可能期間が変動するリスクがあります。建設の遅延や、プレオープン準備の急な前倒しが発生した場合、研修スケジュール全体に影響を及ぼし、結果的に採用遅延につながる可能性があります。
【対策】
開発部門と人事部門が密に連携し、施設の利用可能期間について厳格な予備期間を設定すること。また、研修の後半部分(特に現場実習)については、代替の研修スペース(近隣の会議室や既存のホテル施設)を確保しておくことがリスクヘッジとなります。
地域密着型採用は、将来的にホテルの収益にどう貢献しますか?
地域に根差した人材育成は、単に採用難を解消するだけでなく、ホテルの収益力とブランド価値を長期的に向上させる重要な投資です。最終的に、この戦略は以下の3つの側面から収益に貢献します。
1. 高品質なサービス提供によるゲスト体験(EX)の向上
入社前に体系的なトレーニングを受けたスタッフは、基本的なスキルだけでなく、ホテルのブランドが求めるホスピタリティマインドを深く理解しています。これにより、ゲストに対して質の高い、安定したサービスを提供できるようになります。
スタッフのサービス品質が向上すれば、ゲスト体験(EX)が改善し、結果としてオンラインレビュー(OTA、Googleなど)での評価が高まります。これは、ADR(平均客室単価)を正当化する強力な根拠となり、収益力の向上に直結します。
2. 人件費構造の安定化
離職率の低下は、採用コストと育成コストという「見えない費用」を劇的に削減します。Saira Hospitalityなどが提唱するこのモデルは、採用から数年単位で見た場合、従来の高い採用競争市場に依存するよりも、トータルでの人件費効率が向上する可能性が高いです。
特に、採用障壁を持つ地元住民は、地理的な利便性から定着率が高くなる傾向があり、結果的に賃金以外の「場所への愛着」や「地域コミュニティへの貢献意識」が離職を防ぐ要因となります。
3. ホテルのブランド価値向上と地域との共存
地元コミュニティの雇用創出に貢献することは、ホテルの企業イメージを向上させます。単なる宿泊施設としてだけでなく、「地域に価値を提供する存在」として認識されることで、地域からの支持を得られ、これがメディア露出やブランド認知度の向上につながります。
また、災害時や繁忙期など、ホテル運営に予期せぬ変動があった際にも、地域コミュニティとの強固な信頼関係が、協力体制の構築を容易にし、安定したオペレーションに役立ちます。
よくある質問(FAQ)
ポップアップ・ホスピタリティスクールはどの程度の期間で実施されますか?
一般的に、Saira Hospitalityのようなプログラムでは数週間から数ヶ月間の短期集中型で実施されます。重要なのは、現場のオープニングスケジュールに合わせて柔軟に期間を調整できる点です。
未就労者を採用した場合、現場の教育レベルが下がるリスクはありませんか?
リスクを避けるために、体系化された外部のプログラムを導入し、ホスピタリティのソフトスキルと実務スキルを並行して教えます。入社前に基礎が固まっているため、従来のOJTで経験者を一から教えるよりも、むしろ指導の効率が良くなる可能性が高いです。
この採用モデルは新規開業ホテルでないと導入できませんか?
既存のホテルチェーンでも導入可能です。既存ホテル内の利用頻度の低い会議室や、チェーンが所有する研修施設を「ポップアップスクール」として活用し、地域ごとの新規採用ターゲットを育成できます。未開業施設は必須条件ではありませんが、現場感を出すための環境設定が重要です。
Saira Hospitalityのような外部パートナーは、日本国内にも存在しますか?
海外事例ほど大規模な連携はまだ少ないですが、地域行政やNPOと提携し、就労支援や職業訓練を行っている団体は存在します。ホテル人事部は、これらの団体と協業し、独自のプログラムを設計することが求められます。
採用障壁を持つ人々の定着率を高めるために、他に配慮すべき点はありますか?
「認知負荷軽減」の観点からの配慮が不可欠です。複雑なシステム操作やマルチタスクを求めすぎず、業務を標準化・簡素化することが重要です。また、メンター制度を充実させ、精神的なサポートを継続的に提供することが定着率を大きく左右します。
この戦略は、地域住民以外の採用(例えば留学生)にも応用できますか?
基本的な構造化された研修プログラムは応用可能です。ただし、留学生や遠方からの採用の場合、「採用障壁を持つ個人」とは異なるサポート(ビザ、住宅、日本語教育など)が必要となり、コスト構造が変わってきます。

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